2015年9月5日土曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 05-06

夏目漱石 『坊っちゃん』 五
Soseki Natsume Botchan

 船は静かな海を岸へ漕こぎ戻もどる。


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 船は静かな海を岸へ漕こぎ戻もどる。君釣つりはあまり好きでないと見えますねと赤シャツが聞くから、ええ寝ねていて空を見る方がいいですと答えて、吸いかけた巻烟草まきたばこを海の中へたたき込んだら、ジュと音がして艪ろの足で掻き分けられた浪なみの上を揺ゆられながら漾ただよっていった。「君が来たんで生徒も大いに喜んでいるから、奮発ふんぱつしてやってくれたまえ」と今度は釣にはまるで縁故えんこもない事を云い出した。「あんまり喜んでもいないでしょう」「いえ、お世辞じゃない。全く喜んでいるんです、ね、吉川君」「喜んでるどころじゃない。大騒おおさわぎです」と野だはにやにやと笑った。こいつの云う事は一々癪しゃくに障さわるから妙だ。「しかし君注意しないと、険呑けんのんですよ」と赤シャツが云うから「どうせ険呑です。こうなりゃ険呑は覚悟かくごです」と云ってやった。実際おれは免職めんしょくになるか、寄宿生をことごとくあやまらせるか、どっちか一つにする了見でいた。「そう云っちゃ、取りつきどころもないが――実は僕も教頭として君のためを思うから云うんだが、わるく取っちゃ困る」「教頭は全く君に好意を持ってるんですよ。僕も及およばずながら、同じ江戸っ子だから、なるべく長くご在校を願って、お互たがいに力になろうと思って、これでも蔭ながら尽力じんりょくしているんですよ」と野だが人間並なみの事を云った。野だのお世話になるくらいなら首を縊くくって死んじまわあ。
「それでね、生徒は君の来たのを大変歓迎かんげいしているんだが、そこにはいろいろな事情があってね。君も腹の立つ事もあるだろうが、ここが我慢がまんだと思って、辛防しんぼうしてくれたまえ。決して君のためにならないような事はしないから」
「いろいろの事情た、どんな事情です」
「それが少し込み入ってるんだが、まあだんだん分りますよ。僕ぼくが話さないでも自然と分って来るです、ね吉川君」
「ええなかなか込み入ってますからね。一朝一夕にゃ到底分りません。しかしだんだん分ります、僕が話さないでも自然と分って来るです」と野だは赤シャツと同じような事を云う。
「そんな面倒めんどうな事情なら聞かなくてもいいんですが、あなたの方から話し出したから伺うかがうんです」
「そりゃごもっともだ。こっちで口を切って、あとをつけないのは無責任ですね。それじゃこれだけの事を云っておきましょう。あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。ところが学校というものはなかなか情実のあるもので、そう書生流に淡泊たんぱくには行ゆかないですからね」
「淡泊に行かなければ、どんな風に行くんです」
「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏とぼしいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書りれきしょにもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから」
「さ、そこで思わぬ辺から乗ぜられる事があるんです」
「正直にしていれば誰だれが乗じたって怖こわくはないです」
「無論怖くはない、怖くはないが、乗ぜられる。現に君の前任者がやられたんだから、気を付けないといけないと云うんです」
 野だが大人おとなしくなったなと気が付いて、ふり向いて見ると、いつしか艫ともの方で船頭と釣の話をしている。野だが居ないんでよっぽど話しよくなった。
「僕の前任者が、誰だれに乗ぜられたんです」
「だれと指すと、その人の名誉に関係するから云えない。また判然と証拠しょうこのない事だから云うとこっちの落度になる。とにかく、せっかく君が来たもんだから、ここで失敗しちゃ僕等ぼくらも君を呼んだ甲斐かいがない。どうか気を付けてくれたまえ」
「気を付けろったって、これより気の付けようはありません。わるい事をしなけりゃ好いいんでしょう」


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