夏目漱石 『坊っちゃん』 一
Soseki Natsume Botchan
母が病気で死ぬ
二三日前台所で宙返りをしてへっついの角で
肋骨を
撲って大いに痛かった。
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母が病気で死ぬ二三日前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨を撲って大いに痛かった。母が大層怒って、お前のようなものの顔は見たくない
と云うから、親類へ泊りに行っていた。するととうとう死んだと云う報知が来た。そう早く死ぬとは思わなかった。そんな大病なら、もう少し大人しくすればよかったと思って帰って来た。そうしたら例の兄がおれを親不孝だ、おれ
のために、おっかさんが早く死んだんだと云った。口惜しかったから、兄の横っ面を張って大変叱られた。
母が死んでからは、おやじと兄と三人で暮していた。おやじは何にもせぬ男で、人の顔さえ見れば貴様は駄目だ駄目だと口癖のように云っていた。何が駄目なんだか今に分らない。妙なおやじがあったもんだ。兄は実業家になるとか云ってしきりに英語を勉強していた。元来女のような性分で、ずるいから、仲がよくなかった。十日に一遍ぐらいの割で喧嘩をしていた。ある時将棋をさしたら卑怯な待駒をして、人が困ると嬉しそうに冷やかした。あんまり腹が立ったから、手に在った飛車を眉間へ擲きつけてやった。眉間が割れて少々血が出た。兄がおやじに言付けた。おやじがおれを勘当すると言い出した。
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【待駒(もちごま)
】
将棋において,相手の王が逃げられないように,予め自分の駒を打っておくこと.
【勘当】
親子・師弟などの関係を絶つこと.
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