2015年4月4日土曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 01-13


夏目漱石 『坊っちゃん』 一
Soseki Natsume Botchan


 いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清をたずねたら、北向きの三畳に風邪かぜを引いて寝ていた。


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 いよいよ約束が極まって、もう立つと云う三日前に清をたずねたら、北向きの三畳に風邪かぜを引いて寝ていた。おれの来たのを見て起き直るが早いか、っちゃんいつうちをお持ちなさいますと聞いた。卒業さえすれば金が自然とポッケットの中にいて来ると思っている。そんなにえらい人をつらまえて、まだ坊っちゃんと呼ぶのはいよいよ馬鹿気ている。おれは単簡たんかんに当分うちは持たない。田舎へ行くんだと云ったら、非常に失望しつぼうした容子ようすで、胡麻塩ごましおびんの乱れをしきりにでた。あまり気の毒だから「く事は行くがじき帰る。来年の夏休みにはきっと帰る」となぐさめてやった。それでも妙な顔をしているから「何を見やげに買って来てやろう、何が欲しい」と聞いてみたら「越後えちご笹飴ささあめが食べたい」と云った。越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角ほうがくが違う。「おれの行く田舎には笹飴はなさそうだ」と云って聞かしたら「そんなら、どっちの見当です」と聞き返した。「西の方だよ」と云うと「箱根はこねのさきですか手前ですか」と問う。随分ずいぶん持てあました。
 出立しゅったつの日には朝から来て、いろいろ世話をやいた。来る途中とちゅう小間物屋こまものやで買って来た歯磨はみがき楊子ようじ手拭てぬぐいをズックの革鞄かばんに入れてくれた。そんな物は入らないと云ってもなかなか承知しょうちしない。車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て「もうお別れになるかも知れません。随分ずいぶん機嫌きげんよう」と小さな声で云った。目になみだ一杯いっぱいたまっている。おれは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。汽車きしゃがよっぽど動き出してから、もう大丈夫だいしょうぶだろうと思って、窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何だか大変小さく見えた。

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【単簡(たんかん)
 てみじか.簡単

【胡麻塩(ごましお)】
 黒と白が混じったもの.胡麻塩頭の略で,白髪交じりの黒髪.

【鬢(びん)
 左右の耳の近くの髪.

【持て余す】
 取り扱いに困る.処置に困る.

【小間物(こまもの)
 日用品.(【小間物屋を開く/広げる】ゲロを吐く.(いろいろなものを並べて売る様子から))

【ズック】
 麻や木綿で厚く織られた平織物.船の帆や鞄や靴に用いる.小学生が校内で履く化繊ではない方の上履きや体育館のマットの生地.北陸や東北の方言では上履き全般を意味するのも,小学校の上履きからきているのでは?ズックはオランダ語由来の言葉で,ズックで作られた靴はズック靴と呼ばれる.

【プラットフォーム】
 プラットホーム,乗降場.

【車】
 人力車の意味がある.


 「車を並べて停車場へ着いて、プラットフォームの上へ出た時、車へ乗り込んだおれの顔をじっと見て……」
 最初の「車」が人力車で,坊っちゃんの乗る人力車と清が乗る人力車と並んで走って停車場に向かったのか?次の「車」はプラットフォームに止まる汽車の車両の意味か?

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