2015年9月18日金曜日

夏目漱石 『二百十日』 02-08

夏目漱石 『二百十日』 二
Natsume Sōseki
Nihyaku-tōka(The 210th Day) 

「そんなにおかしいか」


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「そんなにおかしいか」
「おかしいって、誰に聞かしたって笑うぜ」
「そんなに有名な男か」
「そうさ、荒木又右衛門じゃないか」
「だから僕もどこかで聞いたように思うのさ」
「そら、落ち行く先きは九州相良さがらって云うじゃないか」
「云うかも知れんが、その句は聞いた事がないようだ」
「困った男だな」
「ちっとも困りゃしない。荒木又右衛門ぐらい知らなくったって、ごうも僕の人格には関係はしまい。それよりも五里の山路やまみちが苦になって、やたらに不平を並べるような人が困った男なんだ」
「腕力や脚力を持ち出されちゃ駄目だね。とうていかないっこない。そこへ行くと、どうしても豆腐屋出身の天下だ。僕も豆腐屋へ年期奉公に住み込んで置けばよかった」
「君は第一平生から惰弱だじゃくでいけない。ちっとも意志がない」
「これでよっぽど有るつもりなんだがな。ただ饂飩うどんった時ばかりは全く意志が薄弱だと、自分ながら思うね」
「ハハハハつまらん事を云っていらあ」
「しかし豆腐屋にしちゃ、君のからだは奇麗過ぎるね」
「こんなに黒くってもかい」
「黒い白いは別として、豆腐屋は大概箚青ほりものがあるじゃないか」
「なぜ」
「なぜか知らないが、箚青があるもんだよ。君、なぜほらなかった」
「馬鹿あ云ってらあ。僕のような高尚な男が、そんなな真似をするものか。華族や金持がほれば似合うかも知れないが、僕にはそんなものは向かない。荒木又右衛門だって、ほっちゃいまい」


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