森鴎外 『高瀬舟』
Mori Ōgai Takasebune
いつのころであったか。たぶん江戸で
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いつのころであったか。たぶん江戸で
それは名を
護送を命ぜられて、いっしょに舟に乗り込んだ同心
庄兵衛は不思議に思った。そして舟に乗ってからも、単に役目の表で見張っているばかりでなく、絶えず喜助の挙動に、細かい注意をしていた。
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【白河楽翁侯】
白河楽翁は松平定信のこと.「白河」は白河藩藩主であることを意味し,「楽翁」は隠居してからの号である.将軍になれるほどの血筋であったが,老中の田沼意次が行う政治を賄賂政治と批判したことで,左遷され不遇をかこつ(その一方,幕閣入りを狙って田沼意次に賄賂を送った).
その後,白河藩の藩主となった時に起こった浅間山噴火による天明の大飢饉において,飢饉対策が功を奏する.この成果が認められ幕府の老中となる(幕府中枢へ賄賂を送り,田沼の失脚を図ったのも事実である.).11代将軍徳川家斉の頃には老中首座となった.
「寛政の改革」を行なって幕政の立て直しを図ったことで有名だが,寛政の改革そのものは,大奥の策謀によって定信が失脚したことにより頓挫した.
寛政の改革は,祖父である徳川吉宗の行なった享保の改革に倣ったものである.水野忠邦の天保の改革も含めて,江戸時代の三大改革は,すべて農業回帰の緊縮財政である.定信の改革からは朱子学の発想が読み取れる.寛政の改革の緊縮財政や風紀取り締まりは「国家は農業を基盤とすべきで,いかがわしい商工業ではない」という理想主義であった.
今日の経済学の見方では定信のこのような改革を評価しない声が大きい.逆に賄賂政治家とされた田沼意次が行なった株仲間の奨励などの政策は,重商主義な経済学の先見であったと評価されつつある.「江戸で白河楽翁侯が政柄を執っていた」のは1787年6月19日から1793年7月23日(年号は西暦,日付は旧暦)までである.
【政柄】
政権.政治を行う権力.
【寛政】
年号.西暦1789年から1801年まで.光格天皇の台で,時の将軍は徳川家斉.
「寛政」は寛大な政治を意味するが,松代定信の手によって「寛政異学の禁」が行われ,朱子学を尊重し,古学や古文辞学は規制された.禁に反対した亀田鵬斎,山本北山,冢田大峯,豊島豊洲,市川鶴鳴は「寛政の五鬼」と呼ばれる.寛政異学の禁において焚書坑儒までしていないのは寛大なのかもれない.
【智恩院/知恩院】
開基は浄土宗の開祖である法然.浄土宗総本山.法然が念仏を広める中心地として後半生を過ごし(流罪により最晩年の一時は讃岐国で過ごす),没した草庵が起源である.法然の死後霊廟が建てられた.京都市東山区に位置する.
応仁の乱などで幾つかの苦難を経て再建を繰り返した.現在,三門と本堂が国宝に指定されており,他の幾つかの建物も重要文化財である.これらの殆どは,江戸時代に整備されたもので,徳川家の力によるものである.徳川家は浄土宗であった.
因みに「知恩寺(百万遍知恩寺)」は京都市左京区の別の施設で,浄土宗七大本山の寺院,浄土宗大本山である.滋賀県大津市の「新知恩院」は,知恩院が応仁の乱の動乱から避難したときに建立された寺である.
【桜】
バラ科モモ亜科スモモ属(サクラ属)の特に日本人好みの花を咲かせる十数種類の総称.
現在一般的な品種であるソメイヨシノは江戸末期に江戸染井の植木屋から出たとされる品種で明治時代に全国的に広まったものなので,この小説に出てくる桜ではない.現在,智恩院にある桜の品種はソメイヨシノ以外ではヤマザクラ,シダレザクラ,シキザクラ,カンザクラである.おそらくこれらがここでの桜である.特にヤマザクラ系統のサクラは古くからの主流であった.ソメイヨシノとは異なりヤマザクラは満開時に葉が目立つ.
因みに京都ではソメイヨシノ以外の様々な種類の桜があり,また京都盆地の地形によって平地から山にかけて満開になっていく移ろいを見ることができる町である.
【温順】
穏やかで素直なこと.
【挙動】
立ち居振る舞い.動作.様子.
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