2015年9月6日日曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 09-09

夏目漱石 『坊っちゃん』 九
Soseki Natsume Botchan

 山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞けんぶをやるから、三味線を弾けと号令を下した。


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 山嵐は馬鹿に大きな声を出して、芸者、芸者と呼んで、おれが剣舞けんぶをやるから、三味線を弾けと号令を下した。芸者はあまり乱暴な声なので、あっけに取られて返事もしない。山嵐は委細構わず、ステッキを持って来て、踏破千山万岳烟ふみやぶるせんざんばんがくのけむり真中まんなかへ出て独りでかくし芸を演じている。ところへ野だがすでに紀伊の国を済まして、かっぽれを済まして、たな達磨だるまさんを済して丸裸まるはだか越中褌えっちゅうふんどし一つになって、棕梠箒しゅろぼうきを小脇にい込んで、日清談判破裂はれつして……と座敷中練りあるき出した。まるで気違きちがいだ。
 おれはさっきから苦しそうに袴もがず控えているうらなり君が気の毒でたまらなかったが、なんぼ自分の送別会だって、越中褌の裸踴はだかおどりまで羽織袴で我慢がまんしてみている必要はあるまいと思ったから、そばへ行って、古賀さんもう帰りましょうと退去を勧めてみた。するとうらなり君は今日は私の送別会だから、私が先へ帰っては失礼です、どうぞご遠慮えんりょなくと動く景色もない。なに構うもんですか、送別会なら、送別会らしくするがいいです、あの様をご覧なさい。気狂会きちがいかいです。さあ行きましょうと、進まないのを無理に勧めて、座敷を出かかるところへ、野だが箒を振り振り進行して来て、やご主人が先へ帰るとはひどい。日清談判だ。帰せないと箒を横にして行く手をふさいだ。おれはさっきから肝癪かんしゃくが起っているところだから、日清談判なら貴様はちゃんちゃんだろうと、いきなり拳骨げんこつで、野だの頭をぽかりとわしてやった。野だは二三秒の間毒気を抜かれたていで、ぼんやりしていたが、おやこれはひどい。おちになったのは情ない。この吉川をご打擲ちょうちゃくとは恐れ入った。いよいよもって日清談判だ。とわからぬ事をならべているところへ、うしろから山嵐が何か騒動そうどうが始まったと見てとって、剣舞をやめて、飛んできたが、このていたらくを見て、いきなり頸筋くびすじをうんとつかんで引きもどした。日清……いたい。いたい。どうもこれは乱暴だと振りもがくところを横にねじったら、すとんとたおれた。あとはどうなったか知らない。途中とちゅうでうらなり君に別れて、うちへ帰ったら十一時過ぎだった。


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