2015年9月8日火曜日

森鴎外 『高瀬舟』 03-02


森鴎外 『高瀬舟』
Mori Ōgai Takasebune
 
 喜助はにっこり笑った。「御親切におっしゃってくだすって、ありがとうござい……

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 喜助はにっこり笑った。「御親切におっしゃってくだすって、ありがとうございます。なるほど島へゆくということは、ほかの人には悲しい事でございましょう。その心持ちはわたくしにも思いやってみることができます。しかしそれは世間でらくをしていた人だからでございます。京都は結構な土地ではございますが、その結構な土地で、これまでわたくしのいたして参ったような苦しみは、どこへ参ってもなかろうと存じます。おかみのお慈悲で、命を助けて島へやってくださいます。島はよしやつらい所でも、鬼のすむ所ではございますまい。わたくしはこれまで、どこといって自分のいていい所というものがございませんでした。こん度おかみで島にいろとおっしゃってくださいます。そのいろとおっしゃる所に落ち着いていることができますのが、まず何よりもありがたい事でございます。それにわたくしはこんなにかよわいからだではございますが、ついぞ病気をいたしたことはございませんから、島へ行ってから、どんなつらい仕事をしたって、からだを痛めるようなことはあるまいと存じます。それからこん度島へおやりくださるにつきまして、二百もん鳥目ちょうもくをいただきました。それをここに持っております。」こう言いかけて、喜助は胸に手を当てた。遠島を仰せつけられるものには、鳥目二百銅をつかわすというのは、当時のおきてであった。

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【思いやる/思い遣る】
 人の身の上や心情などについて思い巡らすこと.

【お上】
 (1)政治を行う機関.ここでは幕府のこと
 (2)天皇,主君,主人(商家の主人やその家族を指す尊敬語,料理屋などの女主人(女将)),他人の妻.

【慈悲】
 仏教用語で,衆生(迷いの世界にあるあらゆる生類.生きとし生けるもの.)をいつくしみ,楽を与えること(慈)と,衆生をあわれんで苦を除くこと(悲)のことで,あわれんでなさけをかけることやその心を意味する.

【度島(たくしま)
 長崎県平戸市に属する島.「渡島(ととう)」なら島へ渡ること.

【文(もん)
 貨幣の単位.1文銭の現在の価値は約12円.この時代は100文で米が1升買えるくらいである.

【鳥目(ちょうもく)
 銭の異称でお金のこと.
 鵞目(ががん)とも呼ばれた.円形の貨幣で四角い穴が開いていてガチョウ(ガチョウ)の目ににていたから.穴が四角いのは鋳造された貨幣に四角い棒を挿すことで,貨幣が回らず,効率的にバリを取ったり磨いたりすることができたため.
 因みに「鳥目(とりめ)」は夜盲症のこと

【銅(どう)
 江戸時代には金貨(東日本で流通),銀貨(西日本で流通),銭貨があったが庶民が使うのはもっぱら銭貨であった.この銭は銅で出来ていた.

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