2015年9月6日日曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 09-03

夏目漱石 『坊っちゃん』 九
Soseki Natsume Botchan

 今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。


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 今度の事件は全く赤シャツが、うらなりを遠ざけて、マドンナを手に入れる策略なんだろうとおれが云ったら、無論そうに違いない。あいつは大人おとなしい顔をして、悪事を働いて、人が何か云うと、ちゃんと逃道にげみちこしらえて待ってるんだから、よっぽど奸物かんぶつだ。あんな奴にかかっては鉄拳制裁てっけんせいさいでなくっちゃ利かないと、こぶだらけのうでをまくってみせた。おれはついでだから、君の腕は強そうだな柔術じゅうじゅつでもやるかと聞いてみた。すると大将二の腕へ力瘤を入れて、ちょっとつかんでみろと云うから、指の先でんでみたら、何の事はない湯屋にある軽石の様なものだ。
 おれはあまり感心したから、君そのくらいの腕なら、赤シャツの五人や六人は一度に張り飛ばされるだろうと聞いたら、無論さと云いながら、曲げた腕をばしたり、縮ましたりすると、力瘤がぐるりぐるりと皮のなかで廻転かいてんする。すこぶる愉快ゆかいだ。山嵐の証明する所によると、かんじんりを二本より合せて、この力瘤の出る所へ巻きつけて、うんと腕を曲げると、ぷつりと切れるそうだ。かんじんよりなら、おれにも出来そうだと云ったら、出来るものか、出来るならやってみろと来た。切れないと外聞がわるいから、おれは見合せた。
 君どうだ、今夜の送別会に大いに飲んだあと、赤シャツと野だをなぐってやらないかと面白半分に勧めてみたら、山嵐はそうだなと考えていたが、今夜はまあよそうと云った。なぜと聞くと、今夜は古賀に気の毒だから――それにどうせ撲るくらいなら、あいつらの悪るい所を見届けて現場で撲らなくっちゃ、こっちの落度になるからと、分別のありそうな事を附加つけたした。山嵐でもおれよりは考えがあると見える。
 じゃ演説をして古賀君を大いにほめてやれ、おれがすると江戸っ子のぺらぺらになって重みがなくていけない。そうして、きまった所へ出ると、急に溜飲りゅういんが起って咽喉のどの所へ、大きなたまが上がって来て言葉が出ないから、君にゆずるからと云ったら、妙な病気だな、じゃ君は人中じゃ口は利けないんだね、困るだろう、と聞くから、何そんなに困りゃしないと答えておいた。
 そうこうするうち時間が来たから、山嵐と一所に会場へ行く。会場は花晨亭かしんていといって、当地ここで第一等の料理屋だそうだが、おれは一度も足を入れた事がない。もとの家老とかの屋敷やしきを買い入れて、そのまま開業したという話だが、なるほど見懸みかけからしていかめしい構えだ。家老の屋敷が料理屋になるのは、陣羽織じんばおりい直して、胴着どうぎにする様なものだ。


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