2015年9月25日金曜日

夏目漱石 『二百十日』 03-02

夏目漱石 『二百十日』 三
Natsume Sōseki
Nihyaku-tōka(The 210th Day) 

「どうも辟易へきえきだな」


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「どうも辟易へきえきだな」
「何でござりまっす」
「何でもいいから、玉子を持って御出おいで。それから、おい、ちょっと待った。君ビールを飲むか」
「飲んでもいい」と圭さんは泰然たいぜんたる返事をした。
「飲んでもいいか、それじゃ飲まなくってもいいんだ。――よすかね」
「よさなくってもい。ともかくも少し飲もう」
「ともかくもか、ハハハ。君ほど、ともかくもの好きな男はないね。それで、あしたになると、ともかくも饂飩を食おうと云うんだろう。――姉さん、ビールもついでに持ってくるんだ。玉子とビールだ。分ったろうね」
「ビールはござりまっせん」
「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。なさけない所だ」
「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる挨拶あいさつをする。
「ビールはござりませんばってん、恵比寿えびすならござります」
「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」
「うん、飲んでもいい。――その恵比寿はやっぱりびん這入はいってるんだろうね、姉さん」と圭さんはこの時ようやく下女に話しかけた。
「ねえ」と下女は肥後訛ひごなまりの返事をする。
「じゃ、ともかくもそのせんを抜いてね。罎ごと、ここへ持っておいで」
「ねえ」
 下女は心得貌こころえがおに起って行く。幅の狭い唐縮緬とうちりめんをちょきり結びに御臀おしりの上へ乗せて、かすり筒袖つつそでをつんつるてんに着ている。髪だけは一種異様の束髪そくはつに、だいぶ碌さんと圭さんのたんを寒からしめたようだ。


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