2015年9月18日金曜日

夏目漱石 『二百十日』 02-06

夏目漱石 『二百十日』 二
Natsume Sōseki
Nihyaku-tōka(The 210th Day) 


「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんがふねのなかから質問する。

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「あの隣りの客は元来何者だろう」と圭さんがふねのなかから質問する。
「隣りの客どころじゃない。その顔は不思議だよ」
「もう済んだ。ああ好い心持だ」と圭さん、手拭の一端いったんを放すや否や、ざぶんと温泉の中へ、石のように大きな背中を落す。満槽まんそうの湯は一度に面喰めんくらって、槽の底から大恐惶だいきょうこうを持ち上げる。ざあっざあっと音がして、流しへあふれだす。
「ああいい心持ちだ」と圭さんは波のなかで云った。
「なるほどそう遠慮なしに振舞ふるまったら、好い心持に相違ない。君は豪傑だよ」
「あの隣りの客は竹刀しない小手こての事ばかり云ってるじゃないか。全体何者だい」と圭さんは呑気のんきなものだ。
「君が華族と金持ちの事を気にするようなものだろう」
「僕のは深い原因があるのだが、あの客のは何だかわけが分らない」
「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね――」と碌さんが隣りの真似まねをする。
「ハハハハそこでそら竹刀しないを落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似して見る。
「なにあれでも、実は慷慨家こうがいかかも知れない。そらよく草双紙くさぞうしにあるじゃないか。何とかの何々、実は海賊の張本毛剃九右衛門けぞりくえもんて」
「海賊らしくもないぜ。さっき温泉這入はいりに来る時、のぞいて見たら、二人共木枕きまくらをして、ぐうぐう寝ていたよ」
「木枕をして寝られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。
「竹刀も取られるんだあねか。ハハハハ。何でも赤い表紙の本を胸の上へせたまんま寝ていたよ」
「その赤い本が、何でもその、竹刀を落したり、小手を取られるんだあね」と碌さんは、どこまでも真似をする。


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