2015年9月8日火曜日

森鴎外 『高瀬舟』 02-02


森鴎外 『高瀬舟』
Mori Ōgai Takasebune
 
 その日は暮れ方から風がやんで、空一面をおおった薄い雲が、月の輪……


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 その日は暮れ方から風がやんで、空一面をおおった薄い雲が、月の輪郭をかすませ、ようよう近寄って来る夏のあたたかさが、両岸の土からも、川床かわどこの土からも、もやになって立ちのぼるかと思われるであった。下京しもきょうの町を離れて、加茂川を横ぎったころからは、あたりがひっそりとして、ただへさきにさかれる水のささやきを聞くのみである。
 夜舟よふねで寝ることは、罪人にも許されているのに、喜助は横になろうともせず、雲の濃淡に従って、光の増したり減じたりする月を仰いで、黙っている。その額は晴れやかで目にはかすかなかがやきがある。
 庄兵衛はまともには見ていぬが、始終喜助の顔から目を離さずにいる。そして不思議だ、不思議だと、心の内で繰り返している。それは喜助の顔が縦から見ても、横から見ても、いかにも楽しそうで、もし役人に対する気がねがなかったなら、口笛を吹きはじめるとか、鼻歌を歌い出すとかしそうに思われたからである。


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【下京(しもきょう/しもぎょう)】
 京都の市街地の南半分の地区の呼び名.北部は上京(かみぎょう)と呼ばれる.歴史的に境目は三条通だが,現在の行政区分では四条通以南八条通までが下京である.

【舳/舳先
 船首.船の前端部分.みよし.舳(へ).
 船尾は「艫(とも)」

【夜舟/夜船】
 夜行の船.「舟」は手で漕ぐような小型のもの.

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