2015年9月8日火曜日

森鴎外 『高瀬舟』 03-06


森鴎外 『高瀬舟』
Mori Ōgai Takasebune
 
 庄兵衛はいかにけたを違えて考えてみても、ここに彼と我れとの間に、大いな……

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 庄兵衛はいかにけたを違えて考えてみても、ここに彼と我れとの間に、大いなる懸隔けんかくのあることを知った。自分の扶持米ふちまいで立ててゆく暮らしは、おりおり足らぬことがあるにしても、たいてい出納すいとうが合っている。手いっぱいの生活である。しかるにそこに満足を覚えたことはほとんどない。常は幸いとも不幸とも感ぜずに過ごしている。しかし心の奥には、こうして暮らしていて、ふいとお役が御免になったらどうしよう、大病にでもなったらどうしようという疑懼ぎくが潜んでいて、おりおり妻が里方から金を取り出して来て穴うめをしたことなどがわかると、この疑懼が意識のしきいの上に頭をもたげて来るのである。
 いったいこの懸隔はどうして生じて来るだろう。ただうわべだけを見て、それは喜助には身に係累がないのに、こっちにはあるからだと言ってしまえばそれまでである。しかしそれはうそである。よしや自分が一人者ひとりものであったとしても、どうも喜助のような心持ちにはなられそうにない。この根底はもっと深いところにあるようだと、庄兵衛は思った。
 庄兵衛はただ漠然ばくぜんと、人の一生というような事を思ってみた。人は身に病があると、この病がなかったらと思う。その日その日の食がないと、食ってゆかれたらと思う。万一の時に備えるたくわえがないと、少しでもたくわえがあったらと思う。たくわえがあっても、またそのたくわえがもっと多かったらと思う。かくのごとくに先から先へと考えてみれば、人はどこまで行って踏み止まることができるものやらわからない。それを今目の前で踏み止まって見せてくれるのがこの喜助だと、庄兵衛は気がついた。
 庄兵衛は今さらのように驚異の目をみはって喜助を見た。この時庄兵衛は空を仰いでいる喜助の頭から毫光ごうこうがさすように思った。



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懸隔(けんかく/けんがく)
 (1)かけ離れていること.
 (2)程度の甚だしいこと.

【常(つね)】
 ふだん.

【御免】
 免職すること.「お役御免」で,人が仕事や職務をやめさせられること,ものが不要になることを意味する.

【おりおり】
 (1)ときどき.
 (2)だんだん.

【出納】
 出ることと入れること.特に収入と支出を意味する.

【疑懼(ぎく)】
 疑い恐れること.

【閾(しきい)】
 (1)意識と無意識の境目.
 (2)感覚受容器の興奮を起こさせるために必要な最小の刺激.閾値(しきいち/いきち).例えば,ヒトにあまりに小さい音を聞かせても反応しないが,だんだん音を大きくして閾値を超えれば音に反応する.ただし耳では聞こえているはずなのに意識していないということがある.これは脳が五感から送られてくる多くの情報を取捨選択してポイントとなるものに意識を集中させているからである.この場合,耳の感覚受容体である蝸牛が興奮する最小値を閾値とする.もっとも生理学や神経科学に限っても閾値の定義は,活動電位であったりシナプス可塑性誘導であったりさまざまである.
 (3)工学分野での用語.しきい値と呼ぶ事が多い気がする.電気系工学ではディジタル回路のオンとオフを区別する電位(スレッショルド)を言う.

【係累/繋累(けいるい)】
 (1)両親,妻子,兄弟などのうち特に面倒を見なければならないもの.
 (2)縄でつなぎ縛ること.つながること.
 (3)心身を拘束する煩わしい事柄.

【漠然】
 ぼんやりとしてはっきりしない様子.

【かくのごとくに】
 このように

【仰ぐ(あおぐ)】
 (1)上を向く.
 (2)うやまう.
 (3)教えや命令,援助を請う.

毫光
 仏の白毫(びやくごう)から発する光.「白毫」とは仏の眉間にある白い巻き毛,イボのようだが決してイボではない.

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