2015年9月9日水曜日

芥川龍之介 『鼻』 15

芥川龍之介 『鼻』
Ryūnosuke Akutagawa The Nose

――無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ。





 ――無理に短うしたで、病が起ったのかも知れぬ。
 内供は、仏前に香花こうげそなえるようなうやうやしい手つきで、鼻を抑えながら、こう呟いた。
 翌朝、内供がいつものように早く眼をさまして見ると、寺内の銀杏いちょうとちが一晩の中に葉を落したので、庭は黄金きんを敷いたように明るい。塔の屋根には霜が下りているせいであろう。まだうすい朝日に、九輪くりんがまばゆく光っている。禅智内供は、しとみを上げた縁に立って、深く息をすいこんだ。
 ほとんど、忘れようとしていたある感覚が、再び内供に帰って来たのはこの時である。
 内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜ゆうべの短い鼻ではない。上唇の上からあごの下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。
 内供は心の中でこう自分にささやいた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

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