2015年9月18日金曜日

夏目漱石 『二百十日』 02-09

夏目漱石 『二百十日』 二
Natsume Sōseki
Nihyaku-tōka(The 210th Day) 

「荒木又右衛門か。そいつは困ったな。まだそこまでは調べが届いてい……


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「荒木又右衛門か。そいつは困ったな。まだそこまでは調べが届いていないからね」
「そりゃどうでもいいが、ともかくもあしたは六時に起きるんだよ」
「そうして、ともかくも饂飩を食うんだろう。僕の意志の薄弱なのにも困るかも知れないが、君の意志の強固なのにも辟易へきえきするよ。うちを出てから、僕の云う事は一つも通らないんだからな。全く唯々諾々いいだくだくとして命令に服しているんだ。豆腐屋主義はきびしいもんだね」
「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」
「僕がかい」
「なあに世の中の奴らがさ。金持ちとか、華族とか、なんとかかとか、生意気に威張る奴らがさ」
「しかしそりゃ見当違だぜ。そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。どうも驚ろいた。以来君と旅行するのは御免だ」
「なあに構わんさ」
「君は構わなくってもこっちは大いに構うんだよ。その上旅費は奇麗に折半せっぱんされるんだから、きょくだ」
「しかし僕の御蔭で天地の壮観たる阿蘇あその噴火口を見る事ができるだろう」
可愛想かわいそうに。一人ひとりだって阿蘇ぐらい登れるよ」
「しかし華族や金持なんて存外意気地いくじがないもんで……」
「また身代りか、どうだい身代りはやめにして、本当の華族や金持ちの方へ持って行ったら」
「いずれ、その内持ってくつもりだがね。――意気地がなくって、理窟りくつがわからなくって、個人としちゃあ三文の価値もないもんだ」
「だから、どしどし豆腐屋にしてしまうさ」
「その内、してやろうと思ってるのさ」
「思ってるだけじゃ剣呑けんのんなものだ」
「なあにねん年中ねんじゅう思っていりゃ、どうにかなるもんだ」
「随分気が長いね。もっとも僕の知ったものにね。虎列拉コレラになるなると思っていたら、とうとう虎列拉になったものがあるがね。君のもそう、うまく行くと好いけれども」


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