2015年9月6日日曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 08-07

夏目漱石 『坊っちゃん』 八
Soseki Natsume Botchan

「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」

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「あの時承知したのは、古賀君が自分の希望で転任するという話でしたからで……」
「古賀君は全く自分の希望で半ば転任するんです」
「そうじゃないんです、ここに居たいんです。元の月給でもいいから、郷里に居たいのです」
「君は古賀君から、そう聞いたのですか」
「そりゃ当人から、聞いたんじゃありません」
「じゃ誰からお聞きです」
「僕の下宿の婆さんが、古賀さんのおっさんから聞いたのを今日僕に話したのです」
「じゃ、下宿の婆さんがそう云ったのですね」
「まあそうです」
「それは失礼ながら少し違うでしょう。あなたのおっしゃる通りだと、下宿屋の婆さんの云う事は信ずるが、教頭の云う事は信じないと云うように聞えるが、そういう意味に解釈して差支さしつかえないでしょうか」
 おれはちょっと困った。文学士なんてものはやっぱりえらいものだ。妙な所へこだわって、ねちねちし寄せてくる。おれはよく親父おやじから貴様はそそっかしくて駄目だめだ駄目だと云われたが、なるほど少々そそっかしいようだ。婆さんの話を聞いてはっと思って飛び出して来たが、実はうらなり君にもうらなりのおっ母さんにも逢ってくわしい事情は聞いてみなかったのだ。だからこう文学士流にり付けられると、ちょっと受け留めにくい。
 正面からは受け留めにくいが、おれはもう赤シャツに対して不信任を心のうちで申し渡してしまった。下宿の婆さんもけちんぼうの欲張り屋に相違ないが、嘘はかない女だ、赤シャツのように裏表はない。おれは仕方がないから、こう答えた。


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