2015年9月6日日曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 08-06

夏目漱石 『坊っちゃん』 八
Soseki Natsume Botchan

 婆さんはだまって引き込んだ。



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 婆さんはだまって引き込んだ。じいさんは呑気のんきな声を出してうたいをうたってる。謡というものは読んでわかる所を、やにむずかしい節をつけて、わざと分らなくする術だろう。あんな者を毎晩きずにうなる爺さんの気が知れない。おれは謡どころのさわぎじゃない。月給を上げてやろうと云うから、別段欲しくもなかったが、入らない金を余しておくのももったいないと思って、よろしいと承知したのだが、転任したくないものを無理に転任させてその男の月給の上前をねるなんて不人情な事が出来るものか。当人がもとの通りでいいと云うのに延岡くんだりまで落ちさせるとは一体どう云う了見りょうけんだろう。太宰権帥だざいごんのそつでさえ博多はかた近辺で落ちついたものだ。河合又五郎かあいまたごろうだって相良さがらでとまってるじゃないか。とにかく赤シャツの所へ行って断わって来なくっちあ気が済まない。
 小倉こくらはかまをつけてまた出掛けた。大きな玄関へっ立って頼むと云うと、また例の弟が取次に出て来た。おれの顔を見てまた来たかという眼付めつきをした。用があれば二度だって三度だって来る。よる夜なかだってたたおこさないとは限らない。教頭の所へご機嫌伺きげんうかがいにくるようなおれと見損みそくなってるか。これでも月給が入らないから返しにきたんだ。すると弟が今来客中だと云うから、玄関でいいからちょっとお目にかかりたいと云ったらおくへ引き込んだ。足元を見ると、畳付たたみつきの薄っぺらな、のめりの駒下駄こまげたがある。奥でもう万歳ばんざいですよと云う声がきこえる。お客とは野だだなと気がついた。野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を穿くものはない。
 しばらくすると、赤シャツがランプを持って玄関まで出て来て、まあ上がりたまえ、外の人じゃない吉川君だ、と云うから、いえここでたくさんです。ちょっと話せばいいんです、と云って、赤シャツの顔を見ると金時のようだ。野だ公と一杯いっぱい飲んでると見える。
「さっき僕の月給を上げてやるというお話でしたが、少し考えが変ったから断わりに来たんです」
 赤シャツはランプを前へ出して、奥の方からおれの顔をながめたが、とっさの場合返事をしかねて茫然ぼうぜんとしている。増給を断わる奴が世の中にたった一人飛び出して来たのを不審ふしんに思ったのか、断わるにしても、今帰ったばかりで、すぐ出直してこなくってもよさそうなものだと、あきれ返ったのか、または双方合併そうほうがっぺいしたのか、妙な口をして突っ立ったままである。


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