2015年9月8日火曜日

森鴎外 『高瀬舟』 04-03


森鴎外 『高瀬舟』
Mori Ōgai Takasebune
 
 少しうつ向きかげんになって庄兵衛の顔を下から見上げて話していた喜助……

前へ

 少しうつ向きかげんになって庄兵衛の顔を下から見上げて話していた喜助は、こう言ってしまって視線をひざの上に落とした。
 喜助の話はよく条理が立っている。ほとんど条理が立ち過ぎていると言ってもいいくらいである。これは半年ほどの間、当時の事を幾たびも思い浮かべてみたのと、役場で問われ、町奉行所まちぶぎょうしょで調べられるそのたびごとに、注意に注意を加えてさらってみさせられたのとのためである。
 庄兵衛はその場の様子をのあたり見るような思いをして聞いていたが、これがはたして弟殺しというものだろうか、人殺しというものだろうかという疑いが、話を半分聞いた時から起こって来て、聞いてしまっても、その疑いを解くことができなかった。弟は剃刀かみそりを抜いてくれたら死なれるだろうから、抜いてくれと言った。それを抜いてやって死なせたのだ、殺したのだとは言われる。しかしそのままにしておいても、どうせ死ななくてはならぬ弟であったらしい。それが早く死にたいと言ったのは、苦しさに耐えなかったからである。喜助はそのを見ているに忍びなかった。苦から救ってやろうと思って命を絶った。それが罪であろうか。殺したのは罪に相違ない。しかしそれが苦から救うためであったと思うと、そこに疑いが生じて、どうしても解けぬのである。

次へ


【条理】
 物事の筋道.もののことわり.「条理が立つ」で筋が通っている意味. 

【目のあたり】
 目の前.

【忍びない】
 我慢ができない.耐えられない.

0 件のコメント:

コメントを投稿