2015年9月25日金曜日

夏目漱石 『二百十日』 03-08

夏目漱石 『二百十日』 三
Natsume Sōseki
Nihyaku-tōka(The 210th Day) 

「君は無学だよ。荒木又右衛門は知らなくっても好いが、このくらいな事……


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「君は無学だよ。荒木又右衛門は知らなくっても好いが、このくらいな事が分らなくっちゃ恥だぜ」と圭さんは、横から相手の顔を見た。
「人格にかかわるかね。人格にかかわるのは我慢するが、命にかかわっちゃ降参だ」
「まだあんな事を云っている。――じゃ姉さんに聞いて見るがいい。ねえ姉さん。あのくらい火が出たって、御山へは登れるんだろう」
「ねえい」
「大丈夫かい」と碌さんは下女の顔をのぞき込む。
「ねえい。女でも登りますたい」
「女でも登っちゃ、男は是非ぜひ登るわけかな。飛んだ事になったもんだ」
「ともかくも、あしたは六時に起きて……」
「もう分ったよ」
 言いてて、部屋のなかに、ごろりと寝転んだ、碌さんの去ったあとに、圭さんは、黙然もくねんと、まゆげて、奈落ならくから半空に向って、真直まっすぐに立つ火の柱を見詰めていた。


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