2015年9月6日日曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 08-08

夏目漱石 『坊っちゃん』 八
Soseki Natsume Botchan

「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙めんこうむります」


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「あなたの云う事は本当かも知れないですが――とにかく増給はご免蒙めんこうむります」
「それはますます可笑おかしい。今君がわざわざおいでになったのは増俸を受けるにはしのびない、理由を見出したからのように聞えたが、その理由が僕の説明で取り去られたにもかかわらず増俸を否まれるのは少し解しかねるようですね」
「解しかねるかも知れませんがね。とにかく断わりますよ」
「そんなにいやなら強いてとまでは云いませんが、そう二三時間のうちに、特別の理由もないのに豹変ひょうへんしちゃ、将来君の信用にかかわる」
「かかわっても構わないです」
「そんな事はないはずです、人間に信用ほど大切なものはありませんよ。よしんば今一歩ゆずって、下宿の主人が……」
「主人じゃない、婆さんです」
「どちらでもよろしい。下宿の婆さんが君に話した事を事実としたところで、君の増給は古賀君の所得をけずって得たものではないでしょう。古賀君は延岡へ行かれる。その代りがくる。その代りが古賀君よりも多少低給で来てくれる。その剰余じょうよを君にわすと云うのだから、君は誰にも気の毒がる必要はないはずです。古賀君は延岡でただ今よりも栄進される。新任者は最初からの約束やくそくで安くくる。それで君が上がられれば、これほど都合つごうのいい事はないと思うですがね。いやならいやでもいいが、もう一返うちでよく考えてみませんか」


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