2015年9月6日日曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 09-08

夏目漱石 『坊っちゃん』 九
Soseki Natsume Botchan

 芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同がときの声をげて歓迎かんげいしたのかと思うくらい、騒々そうぞうしい。そうしてある奴はなんこをつかむ。

前へ

 芸者が来たら座敷中急に陽気になって、一同がときの声をげて歓迎かんげいしたのかと思うくらい、騒々そうぞうしい。そうしてある奴はなんこをつかむ。その声の大きな事、まるで居合抜いあいぬき稽古けいこのようだ。こっちではけんを打ってる。よっ、はっ、と夢中むちゅうで両手を振るところは、ダーク一座の操人形あやつりにんぎょうよりよっぽど上手じょうずだ。向うのすみではおいおしゃくだ、と徳利を振ってみて、酒だ酒だと言い直している。どうもやかましくて騒々しくってたまらない。そのうちで手持無沙汰てもちぶさたに下を向いて考え込んでるのはうらなり君ばかりである。自分のために送別会を開いてくれたのは、自分の転任をおしんでくれるんじゃない。みんなが酒をんで遊ぶためだ。自分独りが手持無沙汰で苦しむためだ。こんな送別会なら、開いてもらわない方がよっぽどましだ。
 しばらくしたら、めいめい胴間声どうまごえを出して何かうたい始めた。おれの前へ来た一人の芸者が、あんた、なんぞ、唄いなはれ、と三味線をかかえたから、おれは唄わない、貴様唄ってみろと云ったら、かね太鼓たいこでねえ、迷子の迷子の三太郎と、どんどこ、どんのちゃんちきりん。叩いて廻ってわれるものならば、わたしなんぞも、金や太鼓でどんどこ、どんのちゃんちきりんと叩いて廻って逢いたい人がある、と二た息にうたって、おおしんどと云った。おおしんどなら、もっと楽なものをやればいいのに。
 すると、いつの間にかそばへ来て坐った、野だが、鈴ちゃん逢いたい人に逢ったと思ったら、すぐお帰りで、お気の毒さまみたようでげすと相変らずはなし家みたような言葉使いをする。知りまへんと芸者はつんと済ました。野だは頓着とんじゃくなく、たまたま逢いは逢いながら……と、いやな声を出して義太夫ぎだゆう真似まねをやる。おきなはれやと芸者は平手で野だのひざを叩いたら野だは恐悦きょうえつして笑ってる。この芸者は赤シャツに挨拶をした奴だ。芸者に叩かれて笑うなんて、野だもおめでたい者だ。鈴ちゃん僕が紀伊の国をおどるから、一ついて頂戴と云い出した。野だはこの上まだ踴る気でいる。
 向うの方で漢学のおじいさんが歯のない口をゆがめて、そりゃ聞えません伝兵衛でんべいさん、お前とわたしのその中は……とまでは無事にすましたが、それから? と芸者に聞いている。爺さんなんて物覚えのわるいものだ。一人が博物をつらまえて近頃ちかごろこないなのが、でけましたぜ、弾いてみまほうか。よう聞いて、いなはれや――花月巻かげつまき、白いリボンのハイカラ頭、乗るは自転車、弾くはヴァイオリン、半可はんかの英語でぺらぺらと、I am glad to see you と唄うと、博物はなるほど面白い、英語入りだねと感心している。


次へ

0 件のコメント:

コメントを投稿