夏目漱石 『坊っちゃん』 10-09
夏目漱石 『坊っちゃん』 十
Soseki Natsume Botchan
おれと山嵐が感心のあまりこの踴を余念なく見物していると、半町ばかり、向うの方で急にわっと云う鬨の声がして、今まで穏やかに諸所を縦覧していた連中が、にわかに波を打って、右左りに揺き始める。
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おれと山嵐が感心のあまりこの踴を余念なく見物していると、半町ばかり、向うの方で急にわっと云う鬨の声がして、今まで穏やかに諸所を縦覧していた連中が、にわかに波を打って、右左りに揺き始める。喧嘩だ喧嘩だと云う声がすると思うと、人の袖を潜り抜けて来た赤シャツの弟が、先生また喧嘩です、中学の方で、今朝の意趣返しをするんで、また師範の奴と決戦を始めたところです、早く来て下さいと云いながらまた人の波のなかへ潜り込んでどっかへ行ってしまった。
山嵐は世話の焼ける小僧だまた始めたのか、いい加減にすればいいのにと逃げる人を避けながら一散に馳け出した。見ている訳にも行かないから取り鎮めるつもりだろう。おれは無論の事逃げる気はない。山嵐の踵を踏んであとからすぐ現場へ馳けつけた。喧嘩は今が真最中である。師範の方は五六十人もあろうか、中学はたしかに三割方多い。師範は制服をつけているが、中学は式後大抵は日本服に着換えているから、敵味方はすぐわかる。しかし入り乱れて組んづ、解れつ戦ってるから、どこから、どう手を付けて引き分けていいか分らない。山嵐は困ったなと云う風で、しばらくこの乱雑な有様を眺めていたが、こうなっちゃ仕方がない。巡査がくると面倒だ。飛び込んで分けようと、おれの方を見て云うから、おれは返事もしないで、いきなり、一番喧嘩の烈しそうな所へ躍り込んだ。止せ止せ。そんな乱暴をすると学校の体面に関わる。よさないかと、出るだけの声を出して敵と味方の分界線らしい所を突き貫けようとしたが、なかなかそう旨くは行かない。一二間はいったら、出る事も引く事も出来なくなった。目の前に比較的大きな師範生が、十五六の中学生と組み合っている。止せと云ったら、止さないかと師範生の肩を持って、無理に引き分けようとする途端にだれか知らないが、下からおれの足をすくった。おれは不意を打たれて握った、肩を放して、横に倒れた。堅い靴でおれの背中の上へ乗った奴がある。両手と膝を突いて下から、跳ね起きたら、乗った奴は右の方へころがり落ちた。起き上がって見ると、三間ばかり向うに山嵐の大きな身体が生徒の間に挟まりながら、止せ止せ、喧嘩は止せ止せと揉み返されてるのが見えた。おい到底駄目だと云ってみたが聞えないのか返事もしない。
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