夏目漱石 『二百十日』 01-06
夏目漱石 『二百十日』
Natsume Sōseki Nihyaku-tōka(The 210th Day)
隣り座敷の小手と竹刀は双方ともおとなしくなって、
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隣り座敷の小手と竹刀は双方ともおとなしくなって、向うの椽側では、六十余りの肥った爺さんが、丸い背を柱にもたして、胡坐のまま、毛抜きで顋の髯を一本一本に抜いている。髯の根をうんと抑えて、ぐいと抜くと、毛抜は下へ弾ね返り、顋は上へ反り返る。まるで器械のように見える。
「あれは何日掛ったら抜けるだろう」と碌さんが圭さんに質問をかける。
「一生懸命にやったら半日くらいで済むだろう」
「そうは行くまい」と碌さんが反対する。
「そうかな。じゃ一日かな」
「一日や二日で奇麗に抜けるなら訳はない」
「そうさ、ことによると一週間もかかるかね。見たまえ、あの丁寧に顋を撫で廻しながら抜いてるのを」
「あれじゃ。古いのを抜いちまわないうちに、新しいのが生えるかも知れないね」
「とにかく痛い事だろう」と圭さんは話頭を転じた。
「痛いに違いないね。忠告してやろうか」
「なんて」
「よせってさ」
「余計な事だ。それより幾日掛ったら、みんな抜けるか聞いて見ようじゃないか」
「うん、よかろう。君が聞くんだよ」
「僕はいやだ、君が聞くのさ」
「聞いても好いがつまらないじゃないか」
「だから、まあ、よそうよ」と圭さんは自己の申し出しを惜気もなし撤回した。
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