2015年9月6日日曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 11-09

夏目漱石 『坊っちゃん』 十一
Soseki Natsume Botchan

 考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸があおくなったり、赤くなったりして、可愛想かわいそうになったからひとまず考え直す事として引き下がった。

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 考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸があおくなったり、赤くなったりして、可愛想かわいそうになったからひとまず考え直す事として引き下がった。赤シャツには口もきかなかった。どうせ遣っつけるならかためて、うんと遣っつける方がいい。
 山嵐に狸と談判した模様を話したら、大方そんな事だろうと思った。辞表の事はいざとなるまでそのままにしておいても差支さしつかえあるまいとの話だったから、山嵐の云う通りにした。どうも山嵐の方がおれよりも利巧りこうらしいから万事山嵐の忠告に従う事にした。
 山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶あいさつをしてはまの港屋までさがったが、人に知れないように引き返して、温泉の町の枡屋ますやの表二階へひそんで、障子しょうじへ穴をあけてのぞき出した。これを知ってるものはおればかりだろう。赤シャツがしのんで来ればどうせ夜だ。しかもよいの口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎにきまってる。最初の二晩はおれも十一時ごろまで張番はりばんをしたが、赤シャツのかげも見えない。三日目には九時から十時半まで覗いたがやはり駄目だ。駄目をんで夜なかに下宿へ帰るほど馬鹿気た事はない。四五日しごんちすると、うちの婆さんが少々心配を始めて、おくさんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。そんな夜遊びとは夜遊びが違う。こっちのは天に代って誅戮ちゅうりくを加える夜遊びだ。とはいうものの一週間も通って、少しもげんが見えないと、いやになるもんだ。おれは性急せっかちな性分だから、熱心になると徹夜てつやでもして仕事をするが、その代り何によらず長持ちのした試しがない。いかに天誅党でもきる事に変りはない。六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。そこへ行くと山嵐は頑固がんこなものだ。よいから十二時すぎまでは眼を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈がすとうの下をにらめっきりである。おれが行くと今日は何人客があって、とまりが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚ろいた。どうも来ないようじゃないかと云うと、うん、たしかに来るはずだがと時々腕組うでぐみをして溜息ためいきをつく。可愛想に、もし赤シャツがここへ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯しょうがい天誅を加える事は出来ないのである。


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