2015年9月6日日曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 08-09

夏目漱石 『坊っちゃん』 八
Soseki Natsume Botchan

 おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙こうみょうな弁舌をふるえば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたとおそれ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。
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 おれの頭はあまりえらくないのだから、いつもなら、相手がこういう巧妙こうみょうな弁舌をふるえば、おやそうかな、それじゃ、おれが間違ってたとおそれ入って引きさがるのだけれども、今夜はそうは行かない。ここへ来た最初から赤シャツは何だか虫が好かなかった。途中とちゅうで親切な女みたような男だと思い返した事はあるが、それが親切でも何でもなさそうなので、反動の結果今じゃよっぽどいやになっている。だから先がどれほどうまく論理的に弁論をたくましくしようとも、堂々たる教頭流におれを遣り込めようとも、そんな事は構わない。議論のいい人が善人とはきまらない。遣り込められる方が悪人とは限らない。表向きは赤シャツの方が重々もっともだが、表向きがいくら立派だって、腹の中までれさせる訳には行かない。金や威力いりょく理屈りくつで人間の心が買える者なら、高利貸でも巡査じゅんさでも大学教授でも一番人に好かれなくてはならない。中学の教頭ぐらいな論法でおれの心がどう動くものか。人間は好き嫌いで働くものだ。論法で働くものじゃない。
「あなたの云う事はもっともですが、僕は増給がいやになったんですから、まあ断わります。考えたって同じ事です。さようなら」と云いすてて門を出た。頭の上には天の川が一筋かかっている。


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