2015年9月18日金曜日

夏目漱石 『二百十日』 02-07

夏目漱石 『二百十日』 二
Natsume Sōseki
Nihyaku-tōka(The 210th Day) 

「何だろう、あの本は」


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「何だろう、あの本は」
伊賀いが水月すいげつさ」と碌さんは、躊躇ちゅうちょなく答えた。
「伊賀の水月? 伊賀の水月た何だい」
「伊賀の水月を知らないのかい」
「知らない。知らなければ恥かな」と圭さんはちょっと首をひねった。
「恥じゃないが話せないよ」
「話せない? なぜ」
「なぜって、君、荒木又右衛門を知らないか」
「うん、又右衛門か」
「知ってるのかい」と碌さんまた湯の中へ這入はいる。圭さんはまたふねのなかへ突立つったった。
「もう仁王の行水は御免だよ」
「もう大丈夫、背中はあらわない。あまり這入ってると逆上のぼせるから、時々こう立つのさ」
「ただ立つばかりなら、安心だ。――それで、その、荒木又右衛門を知ってるかい」
「又右衛門? そうさ、どこかで聞いたようだね。豊臣秀吉の家来じゃないか」と圭さん、飛んでもない事を云う。
「ハハハハこいつはあきれた。華族や金持ちを豆腐屋にするだなんて、えらい事を云うが、どうもなんにも知らないね」
「じゃ待った。少し考えるから。又右衛門だね。又右衛門、荒木又右衛門だね。待ちたまえよ、荒木の又右衛門と。うん分った」
「何だい」
相撲取すもうとりだ」
「ハハハハ荒木、ハハハハ荒木、又ハハハハ又右衛門が、相撲取り。いよいよ、あきれてしまった。実に無識だね。ハハハハ」と碌さんは大恐悦だいきょうえつである。


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