2015年9月8日火曜日

森鴎外 『高瀬舟』 04-02


森鴎外 『高瀬舟』
Mori Ōgai Takasebune
 
 喜助はひどく恐れ入った様子で、「かしこまりました」と言って、小声で話し……

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 喜助はひどく恐れ入った様子で、「かしこまりました」と言って、小声で話し出した。「どうも飛んだ心得違いで、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げようがございませぬ。あとで思ってみますと、どうしてあんな事ができたかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます。わたくしは小さい時に二親ふたおや時疫じえきでなくなりまして、弟と二人ふたりあとに残りました。初めはちょうど軒下に生まれた犬の子にふびんを掛けるように町内の人たちがお恵みくださいますので、近所じゅうの走り使いなどをいたして、飢え凍えもせずに、育ちました。次第に大きくなりまして職を捜しますにも、なるたけ二人が離れないようにいたして、いっしょにいて、助け合って働きました。去年の秋の事でございます。わたくしは弟といっしょに、西陣にしじん織場おりばにはいりまして、空引そらびきということをいたすことになりました。そのうち弟が病気で働けなくなったのでございます。そのころわたくしどもは北山きたやま掘立小屋ほったてごや同様の所に寝起きをいたして、紙屋川かみやがわの橋を渡って織場へかよっておりましたが、わたくしが暮れてから、食べ物などを買って帰ると、弟は待ち受けていて、わたくしを一人ひとりでかせがせてはすまないすまないと申しておりました。ある日いつものように何心なく帰って見ますと、弟はふとんの上に突っ伏していまして、周囲まわりは血だらけなのでございます。わたくしはびっくりいたして、手に持っていた竹の皮包みや何かを、そこへおっぽり出して、そばへ行って『どうしたどうした』と申しました。すると弟はまっさおな顔の、両方のほおからあごへかけて血に染まったのをあげて、わたくしを見ましたが、物を言うことができませぬ。息をいたすたびに、傷口でひゅうひゅうという音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも様子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と言って、そばへ寄ろうといたすと、弟は右の手をとこに突いて、少しからだを起こしました。左の手はしっかりあごの下の所を押えていますが、その指の間から黒血の固まりがはみ出しています。弟は目でわたくしのそばへ寄るのを留めるようにして口をききました。ようよう物が言えるようになったのでございます。『すまない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなおりそうにもない病気だから、早く死んで少しでも兄きにらくがさせたいと思ったのだ。ふえを切ったら、すぐ死ねるだろうと思ったが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く深くと思って、力いっぱい押し込むと、横へすべってしまった。刃はこぼれはしなかったようだ。これをうまく抜いてくれたらおれは死ねるだろうと思っている。物を言うのがせつなくっていけない。どうぞ手を借して抜いてくれ』と言うのでございます。弟が左の手をゆるめるとそこからまた息が漏ります。わたくしはなんと言おうにも、声が出ませんので、黙って弟ののどの傷をのぞいて見ますと、なんでも右の手に剃刀かみそりを持って、横に笛を切ったが、それでは死に切れなかったので、そのまま剃刀を、えぐるように深く突っ込んだものと見えます。がやっと二寸ばかり傷口から出ています。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようという思案もつかずに、弟の顔を見ました。弟はじっとわたくしを見詰めています。わたくしはやっとの事で、『待っていてくれ、お医者を呼んで来るから』と申しました。弟は恨めしそうな目つきをいたしましたが、また左の手でのどをしっかり押えて、『医者がなんになる、あゝ苦しい、早く抜いてくれ、頼む』と言うのでございます。わたくしは途方に暮れたような心持ちになって、ただ弟の顔ばかり見ております。こんな時は、不思議なもので、目が物を言います。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と言って、さも恨めしそうにわたくしを見ています。わたくしの頭の中では、なんだかこう車の輪のような物がぐるぐる回っているようでございましたが、弟の目は恐ろしい催促をやめません。それにその目の恨めしそうなのがだんだん険しくなって来て、とうとうかたきの顔をでもにらむような、憎々しい目になってしまいます。それを見ていて、わたくしはとうとう、これは弟の言ったとおりにしてやらなくてはならないと思いました。わたくしは『しかたがない、抜いてやるぞ』と申しました。すると弟の目の色がからりと変わって、晴れやかに、さもうれしそうになりました。わたくしはなんでもひと思いにしなくてはと思ってひざをくようにしてからだを前へ乗り出しました。弟は突いていた右の手を放して、今まで喉を押えていた手のひじをとこに突いて、横になりました。わたくしは剃刀かみそりの柄をしっかり握って、ずっと引きました。この時わたくしの内から締めておいた表口の戸をあけて、近所のばあさんがはいって来ました。留守の間、弟に薬を飲ませたり何かしてくれるように、わたくしの頼んでおいたばあさんなのでございます。もうだいぶ内のなかが暗くなっていましたから、わたくしにはばあさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、ばあさんはあっと言ったきり、表口をあけ放しにしておいて駆け出してしまいました。わたくしは剃刀かみそりを抜く時、手早く抜こう、まっすぐに抜こうというだけの用心はいたしましたが、どうも抜いた時の手ごたえは、今まで切れていなかった所を切ったように思われました。刃が外のほうへ向いていましたから、外のほうが切れたのでございましょう。わたくしは剃刀を握ったまま、ばあさんのはいって来てまた駆け出して行ったのを、ぼんやりして見ておりました。ばあさんが行ってしまってから、気がついて弟を見ますと、弟はもう息が切れておりました。傷口からはたいそうな血が出ておりました。それから年寄衆としよりしゅうがおいでになって、役場へ連れてゆかれますまで、わたくしは剃刀をそばに置いて、目を半分あいたまま死んでいる弟の顔を見詰めていたのでございます。」

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【夢中】
 あることに熱中して我を忘れること

【二親】
 両親.父親と母親.

【時疫】
 流行病.はやりやまい.ときのけ.

【軒下】
 家の屋根の下.ただし屋内ではなく屋外の軒が突き出ている下.

【ふびん】
 かわいそうなこと.気の毒なこと.「不憫/不愍」
 「ふびんを掛ける」であわれみをかけ,かわいがること.

【恵み】
 めぐむこと,またはそのめぐまれたもの.なさけをかけること.ほどこし.

【走り使い(はしりづかい)】
 使い走り.あちこち走り回るように言いつけられたこまごまとした用事をこなすこと.

【西陣】
 西陣織のこと.西陣織は京都の西陣で作られる先染めの(染められた糸を使って布を織る)織物である.
 「西陣」は応仁の乱で西軍(山名宗全側)が本陣を置いたことにちなむ地名(大宮今出川辺り)である.11年間続いた乱が勝敗がつかぬまま終わると,東西の軍のあった場所に,戦乱から主に堺などに避難していた織元,織工がそれぞれ集まり,持ち帰った明の最新技術を取り入れ,再興していった.
 したがってその当時は東西二つの集団が組織されていた.織部町付近の東軍本陣跡(白雲村)に「練貫職人集団(練貫座(ねりぬきざ))」が組織され,西軍本陣跡に組織されたのが「綾織物職人集団(大舎人座)」であった.
 二つの座は市場を独占しようと,生糸供給や販売を行う座も関わり争いを繰り広げたが,室町幕府により大舎人座(西陣織)が将軍家直属の織物所に指定され,京都の絹織物の生産を独占する.
 太平の江戸時代,さらに明から染織技術が入いり,高級織物需要が増加したため西陣は発展した.朝廷や貴族だけではなく富裕な商人や武士に指示されていた.この元禄から享保にかけてが最盛期であった.
 そこから衰退が始まったのは,1930年(享保15)の「西陣焼け(享保の大火)」と呼ばれる大火からである.この大火で108町が焼け,織機7,000余のうち3,000余を焼失したとされ,さらに職人の多くは地方の丹後,長浜,桐生,足利などの織物産地に移った.それら地方の商品の品質が上がり,競争相手となったことも原因である.さらに,1788年(天明8)に「天明の大火」(団栗焼け)があり,再び西陣の街の殆どが焼けた.されに同年,贅沢な衣服を禁じるなどの倹約令(奢侈禁止令)が出ているので西陣織は厳しい状況にあった.8年後の1796年(寛政8)では織屋2,000余軒のうち400軒ばかり休織であったそうだ.
 「白河楽翁(→02-01)」の話からこの小説の設定は1787年6月19日から1793年7月23日(西暦と旧暦)までの間の季節は桜の咲く春でである.作者が意図して設定したのかは定かではないが,小説は不遇の時代に位置している.
 因みに京都で有名なもう一つ織物である友禅は白い生地に模様を染め出す(後染め)で,江戸の時代の元禄に人気扇絵師である宮崎友禅斎が小袖の雛形(染色に用いる)を書いたことから歴史が始まる.奢侈禁止令(1683年(天和3))によって金紗,縫(刺繍),惣鹿子(絞り)が使えなくなったときに,それに変わるもととして町人に歓迎された.

【織場】
 織る場所.

【空引き】
  空引き機の略

【北山】
 京都盆地の北側を囲む山地(鞍馬山,貴船山など).(東山,西山とともに京都盆地を囲む.北山文化は室町初期の文化で足利義満が「北山」に別荘(現在の金閣寺)を建てたことから名付けられた.)

【掘立小屋/掘っ立て小屋】
 小屋の一種で,小屋の柱が掘立柱であるもの.小屋は簡易な構造で容積の小さい建物のことを言い,間取りはワンルームのイメージである.
 掘立柱は穴を掘った地面に立てられた柱のことである.この木造の柱は湿気を帯びた地面と直接触れるので腐食が早い.より文明的とされる建物は,礎石を置いてその上に柱を立てる(大陸由来).日本で礎石を用いた建築物は古代から存在していたが,それは寺院や貴族の館に限られていた.時代が進み江戸時代になっても庶民の家で掘立柱が使われているのは珍しくはなかった.
 礎石の上の柱は礎石と固定されず建物の自重による摩擦で安定している.こういったことにより,礎石建築を柔構造,一方地面に固定されたことなどにより掘立建築を剛構造と捉え,後者を安上がりで地震や台風の天災に耐えうる構造で,最悪壊れてもすぐに立て直せるものだとも言われている.
 もともと傷み易いので建て替えが早い掘立建築(例えば代表的な掘立である神宮は20年に一度建て替えている)を可能にしていたのは,この国に木材資源が多かったためだとも言われているが,古くから日本の文明が栄えた機内では,時代が進むごとに木材資源が枯渇していき,徐々に木材の供給地を機内から外へ外へと求めていった.その流れを断ち切ったのが徳川家康で,資源量の乏しい機内から,手付かずの資源が残る関東に移り,さらに持続を意識した森林の管理を行ったそうである.

【紙屋川(かみやがわ)】
 京都市中の西を流れる川.北野天満宮の側を流れる川.同じく西を流れる鴨川に流れ込む.桂川も鴨川に流れこむが,こちらは市内から見て東を流れている.江戸時代には紙屋川と呼ばれていたが,今は上流部は紙屋川,下流を天神川(てんじんがわ)と呼ぶ.その境目は上京区紙屋町にある.もっとも法律の上では天神川が正式名称である.

【床(とこ)】
 寝床

【ひざを撞く/ひざを突く】
 膝頭を地面につける.

【剃刀】
 ここでは,もちろんシックやジレット,貝印のようなもの(安全剃刀)ではなく,床屋が使っているものである,正確には西洋剃刀ではなく日本剃刀であろう.剃刀はヒゲなどの体毛を剃るもので,そのように定義される剃刀は有史以前の遺跡からも確認されている.

【年寄衆】
 ここでは町や村の小さい単位で行政を司る役人のこと.

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