夏目漱石 『坊っちゃん』 一
Soseki Natsume Botchan
清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。
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清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子や色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには遣らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄したものでお兄様はお父様が買ってお上げなさるから構いませんと云う。これは不公平である。おやじは頑固だけれども、そんな依怙贔負はせぬ男だ。しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。全く愛に溺れていたに違いない。元は身分のあるものでも教育のない婆さんだから仕方がない。単にこればかりではない。贔負目は恐ろしいものだ。清はおれをもって将来立身出世して立派なものになると思い込んでいた。その癖勉強をする兄は色ばかり白くって、とても役には立たないと一人できめてしまった。こんな婆さんに逢っては叶わない。自分の好きなものは必ずえらい人物になって、嫌いなひとはきっと落ち振れるものと信じている。おれはその時から別段何になると云う了見もなかった。しかし清がなるなると云うものだから、やっぱり何かに成れるんだろうと思っていた。今から考えると馬鹿馬鹿しい。ある時などは清にどんなものになるだろうと聞いてみた事がある。ところが清にも別段の考えもなかったようだ。ただ手車へ乗って、立派な玄関のある家をこしらえるに相違ないと云った。
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【依怙贔屓(えこひいき)
】
気に入った者や関係のあるものに,力を添えて助けること.贔屓(ひいき)にすること.特別に目をかけること.あるお店をよく利用すること.依怙(えこ)も贔屓の意味である.
【贔屓目(ひいきめ)
】
贔屓をする立場側からの見方で好意的なもの.
【立身出世(りっしんしゅっせ)
】
成功して名をあげること.
【逢っては叶わない】
「出会ったらどうしょうもない」か?
【落ち振れる】
みじめな状態になる.零落する.
【了見】
(料簡/了簡)(1)考えを巡らすこと,思案.(2)取り計らい,処置.(3)耐え忍ぶこと.
【手車】
人力車
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