2015年4月3日金曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 01-10


夏目漱石 『坊っちゃん』 一
Soseki Natsume Botchan

 兄とおれはかように分れたが、困ったのは清の行く先である。



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 兄とおれはかように分れたが、困ったのは清の行く先である。兄は無論むろんれて行ける身分でなし、清も兄の尻にくっ付いて九州くんだりまで出掛ける気は毛頭もうとうなし、と云ってこの時のおれは四畳半よじょうはんの安下宿にこもって、それすらもいざとなれば直ちに引きはらわねばならぬ始末だ。どうする事も出来ん。清に聞いてみた。どこかへ奉公でもする気かねと云ったらあなたがおうちを持って、おくさまをお貰いになるまでは、仕方がないから、おいの厄介になりましょうとようやく決心した返事をした。この甥は裁判所の書記でまず今日には差支さしつかえなく暮していたから、今までも清に来るなら来いと二三度勧めたのだが、清はたとい下女奉公はしても年来住みれたうちの方がいいと云って応じなかった。しかし今の場合知らぬ屋敷へ奉公易ほうこうがえをして入らぬ気兼きがねを仕直すより、甥の厄介になる方がましだと思ったのだろう。それにしても早くうちを持ての、さいを貰えの、来て世話をするのと云う。親身しんみの甥よりも他人のおれの方が好きなのだろう。
 九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て金を六百円出してこれを資本にして商買しょうばいをするなり、学資にして勉強をするなり、どうでも随意ずいいに使うがいい、その代りあとは構わないと云った。兄にしては感心なやり方だ、何の六百円ぐらい貰わんでも困りはせんと思ったが、例に似ぬ淡泊たんばくな処置が気に入ったから、礼を云って貰っておいた。兄はそれから五十円出してこれをついでに清に渡してくれと云ったから、異議なく引き受けた。二日立って新橋の停車場ていしゃばで分れたぎり兄にはその後一遍いっぺんも逢わない。

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【毛頭ない】
 少しもない.毛の先ほども.

【随意(ずいい)
 思うまま.束縛や制限なく,自由に.

【淡泊】
 物事の感じがさっぱりしていること.色や質感が淡く薄いこと.

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