夏目漱石 『坊っちゃん』 一
Soseki Natsume Botchan
庭を東へ二十歩に行き尽つくすと、南上がりにいささかばかりの菜園が……
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庭を東へ二十歩に行き尽すと、南上がりにいささかばかりの菜園があって、真中に栗の木が一本立っている。これは命より大事な栗だ。実の熟す
る時分は起き抜けに背戸を出て落ちた奴を拾ってきて、学校で食う。菜園の西側が山城屋という質屋の庭続きで、この質屋に勘太郎という十三四の倅が居た。勘太郎は無論弱虫である。弱虫の癖に四つ目垣を乗りこえて、栗を盗みにくる。ある日の夕方折戸の蔭に隠れて、とうとう勘太郎を捕まえてやった。その時勘太郎は逃げ路を失って、一生懸命に飛びかかってきた。向うは二つばかり年上である。弱虫だが力は強い。鉢の開いた頭を、こっちの胸へ宛ててぐいぐい押した拍子に、勘太郎の頭がすべって、おれの袷の袖の中にはいった。邪魔になって手が使えぬから、無暗に手を振ったら、袖の中にある勘太郎の頭が、右左へぐらぐら靡いた。しまいに苦しがって袖の中から、おれの二の腕へ食い付いた。痛かったから勘太郎を垣根へ押しつけておいて、足搦をかけて向うへ倒してやった。山城屋の地面は菜園より六尺がた低い。勘太郎は四つ目垣を半分崩して、自分の領分へ真逆様に落ちて、ぐうと云った。勘太郎が落ちるときに、おれの袷の片袖がもげて、急に手が自由になった。その晩母が山城屋に詫びに行ったついでに袷の片袖も取り返して来た。
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【いささか】
すこし,ほんのちょっと.
【背戸】
勝手口,裏口.裏門.
【倅(せがれ)】
年少の男.卑しめたり,へりくっだたりするときに用いる言葉.
【四つ目垣(よつめがき)】
竹垣の一種.
→
【鉢の開いた頭】
幅広の頭.「鉢」が頭の意味.
【袷(あわせ)】
秋冬春に着る衣服.裏地付き.
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【領分】
領有している土地.勢力範囲.
【垣根(かきね)】
(1)屋敷などの外側の囲い.主に低木などを植えた生垣(いけがき),竹で編んだものを言う.垣(かき).(2)垣と地面が接する根本.(3)障壁(比喩).
【足搦(あしがらみ/あしがら)】
足をからめること.その技.
【尺(しゃく)】
長さの単位.約30.3cm.寸(すん)は尺の十分の一,丈(じょう)は十倍.
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