夏目漱石 『坊っちゃん』 一
Soseki Natsume Botchan
引き受けた以上は赴任せねばならぬ。
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引き受けた以上は赴任せねばならぬ。この三年間は四畳半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。しかしこうなると四畳半も引き払わなければならん。生れてから東京以外に踏み出したのは、同級生と一所に鎌倉へ遠足した時ばかりである。今度は鎌倉どころではない。大変な遠くへ行かねばならぬ。地図で見ると海浜で針の先ほど小さく見える。どうせ碌な所ではあるまい。どんな町で、どんな人が住んでるか分らん。分らんでも困らない。心配にはならぬ。ただ行くばかりである。もっとも少々面倒臭い。
家を畳んでからも清の所へは折々行った。清の甥というのは存外結構な人である。おれが行くたびに、居りさえすれば、何くれと款待なしてくれた。清はおれを前へ置いて、いろいろおれの自慢を甥に聞かせた。今に学校を卒業すると麹町辺へ屋敷を買って役所へ通うのだなどと吹聴した事もある。独りで極めて一人で喋舌るから、こっちは困まって顔を赤くした。それも一度や二度ではない。折々おれが小さい時寝小便をした事まで持ち出すには閉口した。甥は何と思って清の自慢を聞いていたか分らぬ。ただ清は昔風の女だから、自分とおれの関係を封建時代の主従のように考えていた。自分の主人なら甥のためにも主人に相違ないと合点したものらしい。甥こそいい面の皮だ。
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【蟄居(ちっきょ)
】
(1)昆虫などが地中にこもって冬眠しているようす.またはその冬眠場所.(2)家の中に引きこもっていること.(3)刑罰の一つで自宅の一室で謹慎させるもの.(「蟄」に冬ごもりしている虫の意味がある.)
【吹聴】
言いふらすこと.
【封建】
封建制度の略.封建制度は,一般に領主が家臣に封土を与えるかわりに,家臣に軍役の義務を負わせる制度.日本では鎌倉時代から江戸時代の制度とされる.(古代中国で王が諸侯に与えた土地には盛り土(封土)を建てたことが由来).
【主従】
身分の上で主となる者とそれに従う身分の下の者.
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