2015年4月7日火曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 03-01

夏目漱石 『坊っちゃん』 三
Soseki Natsume Botchan

 いよいよ学校へ出た。




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 いよいよ学校へ出た。初めて教場へはいって高い所へ乗った時は、何だか変だった。講釈をしながら、おれでも先生が勤まるのかと思った。生徒はやかましい。時々図抜ずぬけた大きな声で先生とう。先生にはこたえた。今まで物理学校で毎日先生先生と呼びつけていたが、先生と呼ぶのと、呼ばれるのは雲泥うんでいの差だ。何だか足の裏がむずむずする。おれは卑怯ひきょうな人間ではない。臆病おくびょうな男でもないが、しい事に胆力たんりょくが欠けている。先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で午砲どんを聞いたような気がする。最初の一時間は何だかいい加減にやってしまった。しかし別段困った質問もけられずに済んだ。控所ひかえじょへ帰って来たら、山嵐がどうだいと聞いた。うんと単簡に返事をしたら山嵐は安心したらしかった。
 二時間目に白墨はくぼくを持って控所を出た時には何だか敵地へ乗りむような気がした。教場へ出ると今度の組は前より大きなやつばかりである。おれは江戸えどっ子で華奢きゃしゃに小作りに出来ているから、どうも高い所へ上がってもしが利かない。喧嘩けんかなら相撲取すもうとりとでもやってみせるが、こんな大僧おおぞうを四十人も前へならべて、ただ一まいの舌をたたいて恐縮きょうしゅくさせる手際はない。しかしこんな田舎者いなかものに弱身を見せるとくせになると思ったから、なるべく大きな声をして、少々巻き舌で講釈してやった。最初のうちは、生徒もけむかれてぼんやりしていたから、それ見ろとますます得意になって、べらんめい調を用いてたら、一番前の列の真中まんなかに居た、一番強そうな奴が、いきなり起立して先生と云う。そら来たと思いながら、何だと聞いたら、「あまり早くて分からんけれ、もちっと、ゆるゆるって、おくれんかな、もし」と云った。おくれんかな、、、、、、もし、、生温なまぬるい言葉だ。早過ぎるなら、ゆっくり云ってやるが、おれは江戸っ子だから君等きみらの言葉は使えない、わからなければ、分るまで待ってるがいいと答えてやった。この調子で二時間目は思ったより、うまく行った。ただ帰りがけに生徒の一人がちょっとこの問題を解釈をしておくれんかな、もし、と出来そうもない幾何きかの問題を持ってせまったには冷汗ひやあせを流した。仕方がないから何だか分らない、この次教えてやると急いで引きげたら、生徒がわあとはやした。その中に出来ん出来んと云う声がきこえる。箆棒べらぼうめ、先生だって、出来ないのは当り前だ。出来ないのを出来ないと云うのに不思議があるもんか。そんなものが出来るくらいなら四十円でこんな田舎へくるもんかと控所へ帰って来た。今度はどうだとまた山嵐が聞いた。うんと云ったが、うんだけでは気が済まなかったから、この学校の生徒は分らずやだなと云ってやった。山嵐はみょうな顔をしていた。

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