2015年4月4日土曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 01-11

夏目漱石 『坊っちゃん』 一
Soseki Natsume Botchan

 おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。





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 おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。商買しょうばいをしたって面倒めんどくさくってうまく出来るものじゃなし、ことに六百円の金で商買らしい商買がやれる訳でもなかろう。よしやれるとしても、今のようじゃ人の前へ出て教育を受けたと威張いばれないからつまり損になるばかりだ。資本しほんなどはどうでもいいから、これを学資がくしにして勉強してやろう。六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。三年間一生懸命いっしょうけんめいにやれば何か出来る。それからどこの学校へはいろうと考えたが、学問は生来しょうらいどれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平まっぴらめんだ。新体詩しんたいしなどと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、さいわい物理学校の前を通りかかったら生徒募集ぼしゅうの広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書きそくしょをもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲からおこった失策しっさくだ。
 三年間まあ人並ひとなみに勉強はしたが別段べつだんたちのいい方でもないから、席順せきじゅんはいつでも下から勘定かんじょうする方が便利であった。しかし不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑おかしいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業しておいた。
 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国しこくあたりのある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。おれは三年間学問はしたがじつを云うと教師になる気も、田舎いなかへ行く考えも何もなかった。もっとも教師以外に何をしようと云うあてもなかったから、この相談を受けた時、行きましょうと即席そくせきに返事をした。これも親譲りの無鉄砲がたたったのである。

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【新体詩】
 明治時代から始まる,西洋文学の影響を受けた新しい詩.新詩.和歌・俳句・漢詩の定まった詩型に対して自由な形をとっている.北村透谷や島崎藤村が有名.

【物理学校】
 モデルは東京物理学講習所で,現在の東京理科大学の前身.漱石はこの学校の設立者21名の中で櫻井房記と中村恭平と親交が深かった.この学校は無試験で入れたが,進級は卒業は厳しかった.そして,多くの卒業生が数学と物理の優秀な教員として就職していった.

【席順】
 成績順.

【勘定】
数えること.

【即席】
すぐさま.

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