2015年4月2日木曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 01-06


夏目漱石 『坊っちゃん』 一

Soseki Natsume Botchan


母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。


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 母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。つまらない、せばいいのにと思った。気の毒だと思った。それでも清は可愛がる。折々は自分の小遣こづかいで金鍔きんつば紅梅焼こうばいやきを買ってくれる。寒い夜などはひそかに蕎麦粉そばこを仕入れておいて、いつの間にかている枕元まくらもとへ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼饂飩なべやきうどんさえ買ってくれた。ただ食い物ばかりではない。靴足袋くつたびももらった。鉛筆えんぴつも貰った、帳面も貰った。これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。何も貸せと云った訳ではない。向うで部屋へ持って来てお小遣いがなくてお困りでしょう、お使いなさいと云ってくれたんだ。おれは無論入らないと云ったが、是非使えと云うから、借りておいた。実は大変嬉しかった。その三円を蝦蟇口がまぐちへ入れて、ふところへ入れたなり便所へ行ったら、すぽりと後架こうかの中へおとしてしまった。仕方がないから、のそのそ出てきて実はこれこれだと清に話したところが、清は早速竹の棒をさがして来て、取って上げますと云った。しばらくすると井戸端いどばたでざあざあ音がするから、出てみたら竹の先へ蝦蟇口のひもを引きけたのを水で洗っていた。それから口をあけて壱円札いちえんさつを改めたら茶色になって模様が消えかかっていた。清は火鉢でかわかして、これでいいでしょうと出した。ちょっとかいでみてくさいやと云ったら、それじゃお出しなさい、取りえて来て上げますからと、どこでどう胡魔化ごまかしたか札の代りに銀貨を三円持って来た。この三円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと云ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。

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【金鍔(きんつば)
 ここでは和菓子の金鍔焼き(きんつばやき)のこと.江戸中期に上方で考案されたときは円盤型の菓子で刀の鍔に形が似ているので銀鍔(ぎんつば)と呼ばれた,この菓子が江戸に下ったときに,銀よりも金のほうが良いということで金鍔と呼ばれるようになった.現在ではその形も円盤形ではなく角型になっているのをみることが多い.

【紅梅焼】
 山椒の香りのする煎餅.しょっぱい味とおもいきや,甘い香りがして妙に調和した甘さがある.梅の花の型が押されていたことが由来らしい.円形でその真ん中に緑の山椒がかかったものをよく見る.

【蕎麦粉】
 ソバの実を挽いた粉.因みに日本の蕎麦粉の80%は中国からの輸入でまかなっている.蕎麦と馴染みを感じにくいアメリカとカナダが中国に続く輸入国である.更にいうなら生産高世界一とされるのはロシアである.東欧には蕎麦でカーシャをつくる食文化が存在するからである.

【蕎麦湯】
 蕎麦粉を溶かした湯,あるいは蕎麦の麺の茹で汁.世間でひそかに騒がれている蕎麦湯は後者.後者の蕎麦湯はたくさん含まれている様々な栄養のうちルチンに関しては吸収などに疑問が投げかけられていたりもするので,蕎麦粉をそのままま溶かして飲むほうが効率的な気がする.

【靴足袋】
 つま先が二つにわかれた靴下のようなもので,足袋とは異なり,くるぶしから上の部分はない.

【円】
 住み込み下女の月収は食事付きで82銭(明治25年)である.明治30年頃の物価では1円は3,800円くらいで,公務員の月収は50円だあったが.ここでいう当時の公務員は庶民とは言い難い.小学校の教員の初任給は9円ほどで,米10キロで1円12銭,あんぱんは1銭(明治34年)である.女中が普通に見られた時代であったことからしても当時は大きな格差社会であり,1円の価値は人それぞれであった.

【帳面】
 外来語でいうとノート.

【蝦蟇口(がまぐち)
 がまぐちの財布.口金が付いており,開くとカエル(ガマ)が口を開けたような形になる.

【後架(こうか/ごか)
 便所.禅寺の騒動の後ろに掛け渡して設置された洗面所.その洗面所側にが便所あったことから便所(特に小便所)の意味を持つようになった.ちなみに「高架」は高く掛け渡す意味,「高架橋」など.

【井戸端】
 井戸のほとり,まわり.

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