2015年9月18日金曜日

夏目漱石 『二百十日』 02-01

夏目漱石 『二百十日』 二
Natsume Sōseki
Nihyaku-tōka(The 210th Day) 

「この湯は何にくんだろう」と豆腐屋のけいさんが湯槽ゆぶねのなかで、ざぶざ……


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「この湯は何にくんだろう」と豆腐屋のけいさんが湯槽ゆぶねのなかで、ざぶざぶやりながら聞く。
「何に利くかなあ。分析表を見ると、何にでも利くようだ。――君そんなに、へそばかりざぶざぶ洗ったって、出臍でべそなおらないぜ」
「純透明だね」と出臍の先生は、両手に温泉んで、口へ入れて見る。やがて、
「味も何もない」と云いながら、流しへ吐き出した。
「飲んでもいいんだよ」とろくさんはがぶがぶ飲む。
 圭さんはへそを洗うのをやめて、湯槽のふちひじをかけて漫然まんぜんと、硝子越ガラスごしに外を眺めている。碌さんは首だけ湯にかって、相手の臍から上を見上げた。
「どうも、いい体格からだだ。全く野生やせいのままだね」
「豆腐屋出身だからなあ。体格がるいと華族や金持ちと喧嘩けんかは出来ない。こっちは一人むこうは大勢だから」
「さも喧嘩の相手があるような口振くちぶりだね。とうてきは誰だい」
「誰でも構わないさ」
「ハハハ呑気のんきなもんだ。喧嘩にも強そうだが、足の強いのにはおどろいたよ。君といっしょでなければ、きのうここまでくる勇気はなかったよ。実は途中で御免蒙ごめんこうむろうかと思った」
「実際少し気の毒だったね。あれでも僕はよほど加減して、歩行あるいたつもりだ」
「本当かい? はたして本当ならえらいものだ。――何だか怪しいな。すぐ付け上がるからいやだ」
「ハハハ付け上がるものか。付け上がるのは華族と金持ばかりだ」
「また華族と金持ちか。眼のかたきだね」
「金はなくっても、こっちは天下の豆腐屋だ」
「そうだ、いやしくも天下の豆腐屋だ。野生の腕力家だ」


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【分析表】
 温泉の源泉,泉質/成分,効能などが書かれている表.温泉に行くと入浴者の見えるところに貼ってある.現在では温泉法によって温泉分析書とその掲示などは規定されている.

【出臍(でべそ)】
 突き出ているへそ.出臍は一般に美観が悪いものとされる.臍ヘルニア(さいへるにあ).妊婦と新生児に多いが自然に治ることが多い多いとされている.成人の出臍は,基本的に治療を必要とするものではないとされているが,まれに合併症を伴う場合もある(嵌頓(かんとん)).因みにヘルニアとは本来あるべきところから逸脱した状態である.

【漫然】
 はっきりした目的や意識もない様子.ぼんやりして心に留めない.とりとめのない,しまりのないさま.

【御免蒙る】
 もうたくさんんである.「御免(ごめん)」には拒否の気持ちを表す意味がある.「蒙る/被る(こうむる)」は,「いただく」という意味で神仏や目上から行為や恩恵を受けること.

【華族】
 明治に設けられた身分の一つで,皇族の下で士族の上の身分である.財産の面では世襲財産の保護や国からの援助など,他にも種々の特権が与えられた.もともと江戸時代の公卿,大名が華族だったが,後に臣籍降下した元皇族,国家に勲功のあった政治家,軍人,官吏,実業家も列せられた.また上から公爵,侯爵,伯爵,子爵,男爵の爵位(華族内の序列)を授けられた.

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