夏目漱石 『坊っちゃん』 09-04
夏目漱石 『坊っちゃん』 九
Soseki Natsume Botchan
二人が着いた頃には、人数ももう大概揃って、五十畳の広間に二つ三つ人間の塊が出来ている。
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二人が着いた頃には、人数ももう大概揃って、五十畳の広間に二つ三つ人間の塊が出来ている。五十畳だけに床は素敵に大きい。おれが山城屋で占領した十五畳敷の床とは比較にならない。尺を取ってみたら二間あった。右の方に、赤い模様のある瀬戸物の瓶を据えて、その中に松の大きな枝が挿してある。松の枝を挿して何にする気か知らないが、何ヶ月立っても散る気遣いがないから、銭が懸らなくって、よかろう。あの瀬戸物はどこで出来るんだと博物の教師に聞いたら、あれは瀬戸物じゃありません、伊万里ですと云った。伊万里だって瀬戸物じゃないかと、云ったら、博物はえへへへへと笑っていた。あとで聞いてみたら、瀬戸で出来る焼物だから、瀬戸と云うのだそうだ。おれは江戸っ子だから、陶器の事を瀬戸物というのかと思っていた。床の真中に大きな懸物があって、おれの顔くらいな大きさな字が二十八字かいてある。どうも下手なものだ。あんまり不味いから、漢学の先生に、なぜあんなまずいものを麗々と懸けておくんですと尋ねたところ、先生はあれは海屋といって有名な書家のかいた者だと教えてくれた。海屋だか何だか、おれは今だに下手だと思っている。
やがて書記の川村がどうかお着席をと云うから、柱があって靠りかかるのに都合のいい所へ坐った。海屋の懸物の前に狸が羽織、袴で着席すると、左に赤シャツが同じく羽織袴で陣取った。右の方は主人公だというのでうらなり先生、これも日本服で控えている。おれは洋服だから、かしこまるのが窮屈だったから、すぐ胡坐をかいた。隣りの体操教師は黒ずぼんで、ちゃんとかしこまっている。体操の教師だけにいやに修行が積んでいる。やがてお膳が出る。徳利が並ぶ。幹事が立って、一言開会の辞を述べる。それから狸が立つ。赤シャツが起つ。ことごとく送別の辞を述べたが、三人共申し合せたようにうらなり君の、良教師で好人物な事を吹聴して、今回去られるのはまことに残念である、学校としてのみならず、個人として大いに惜しむところであるが、ご一身上のご都合で、切に転任をご希望になったのだから致し方がないという意味を述べた。こんな嘘をついて送別会を開いて、それでちっとも恥かしいとも思っていない。ことに赤シャツに至って三人のうちで一番うらなり君をほめた。この良友を失うのは実に自分にとって大なる不幸であるとまで云った。しかもそのいい方がいかにも、もっともらしくって、例のやさしい声を一層やさしくして、述べ立てるのだから、始めて聞いたものは、誰でもきっとだまされるに極ってる。マドンナも大方この手で引掛けたんだろう。赤シャツが送別の辞を述べ立てている最中、向側に坐っていた山嵐がおれの顔を見てちょっと稲光をさした。おれは返電として、人指し指でべっかんこうをして見せた。
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