2015年9月8日火曜日

森鴎外 『高瀬舟』 03-05


森鴎外 『高瀬舟』
Mori Ōgai Takasebune
 
 庄兵衛は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べて……

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 庄兵衛は今喜助の話を聞いて、喜助の身の上をわが身の上に引き比べてみた。喜助は仕事をして給料を取っても、右から左へ人手に渡してなくしてしまうと言った。いかにも哀れな、気の毒な境界きょうがいである。しかし一転してわが身の上を顧みれば、彼と我れとの間に、はたしてどれほどの差があるか。自分もかみからもらう扶持米ふちまいを、右から左へ人手に渡して暮らしているに過ぎぬではないか。彼と我れとの相違は、いわば十露盤そろばんけたが違っているだけで、喜助のありがたがる二百もんに相当する貯蓄だに、こっちはないのである。
 さて桁を違えて考えてみれば、鳥目ちょうもく二百文をでも、喜助がそれを貯蓄と見て喜んでいるのに無理はない。その心持ちはこっちから察してやることができる。しかしいかに桁を違えて考えてみても、不思議なのは喜助の欲のないこと、足ることを知っていることである。
 喜助は世間で仕事を見つけるのに苦しんだ。それを見つけさえすれば、骨を惜しまずに働いて、ようよう口をのりすることのできるだけで満足した。そこでろう
に入ってからは、今まで得がたかった食が、ほとんど天から授けられるように、働かずに得られるのに驚いて、生まれてから知らぬ満足を覚えたのである

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【境界(きょうがい)】
 果報として各自が受ける境遇.

【身の上】
 人の一身に関る境遇.

【足ることを知る】
 身分相応に満足する.

【口を糊する】
 やっと生計を立てていく.やっと食べていく.

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