2015年9月6日日曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 09-02

夏目漱石 『坊っちゃん』 九
Soseki Natsume Botchan

 山嵐は約束やくそく通りおれの下宿へ寄った。



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 山嵐は約束やくそく通りおれの下宿へ寄った。おれはこの間から、うらなり君の顔を見る度に気の毒でたまらなかったが、いよいよ送別の今日となったら、何だかあわれっぽくって、出来る事なら、おれが代りに行ってやりたい様な気がしだした。それで送別会の席上で、大いに演説でもしてその行をさかんにしてやりたいと思うのだが、おれのべらんめえ調子じゃ、到底とうてい物にならないから、大きな声を出す山嵐をやとって、一番赤シャツの荒肝あらぎもひしいでやろうと考え付いたから、わざわざ山嵐を呼んだのである。
 おれはまず冒頭ぼうとうとしてマドンナ事件から説き出したが、山嵐は無論マドンナ事件はおれよりくわしく知っている。おれが野芹川のぜりがわの土手の話をして、あれは馬鹿野郎ばかやろうだと云ったら、山嵐は君はだれをつらまえても馬鹿よばわりをする。今日学校で自分の事を馬鹿と云ったじゃないか。自分が馬鹿なら、赤シャツは馬鹿じゃない。自分は赤シャツの同類じゃないと主張した。それじゃ赤シャツは腑抜ふぬけの呆助ほうすけだと云ったら、そうかもしれないと山嵐は大いに賛成した。山嵐は強い事は強いが、こんな言葉になると、おれよりはるかに字を知っていない。会津っぽなんてものはみんな、こんな、ものなんだろう。
 それから増給事件と将来重く登用すると赤シャツが云った話をしたら山嵐はふふんと鼻から声を出して、それじゃ僕を免職めんしょくする考えだなと云った。免職するつもりだって、君は免職になる気かと聞いたら、だれがなるものか、自分が免職になるなら、赤シャツもいっしょに免職させてやると大いに威張いばった。どうしていっしょに免職させる気かと押し返してたずねたら、そこはまだ考えていないと答えた。山嵐は強そうだが、智慧ちえはあまりなさそうだ。おれが増給をことわったと話したら、大将大きに喜んでさすが江戸っ子だ、えらいとめてくれた。
 うらなりが、そんなにいやがっているなら、なぜ留任の運動をしてやらなかったと聞いてみたら、うらなりから話を聞いた時は、すでにきまってしまって、校長へ二度、赤シャツへ一度行って談判してみたが、どうする事も出来なかったと話した。それについても古賀があまり好人物過ぎるから困る。赤シャツから話があった時、断然断わるか、一応考えてみますとげればいいのに、あの弁舌に胡魔化されて、即席そくせき許諾きょだくしたものだから、あとからおっかさんが泣きついても、自分が談判に行っても役に立たなかったと非常に残念がった。


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