森鴎外 『高瀬舟』
Mori Ōgai Takasebune
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が……
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高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞をすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立った一人を大阪まで同船させることを許す慣例であつた。これは上へ通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた、默許であつた。
當時遠島を申し渡された罪人は、勿論重い科を犯したものと認められた人ではあるが、決して盜をするために、人を殺し火を放つたと云ふやうな、獰悪な人物が多數を占めてゐたわけではない。高瀬舟に乘る罪人の過半は、所謂心得違のために、想はぬ科を犯した人であつた。有り觸れた例を擧げて見れば、當時相對死と云つた情死を謀つて、相手の女を殺して、自分だけ活き殘つた男と云ふやうな類である。
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【高瀬川】
江戸時代初期に開削された運河で,京都市中京区樋之口の鴨川から伏見区京橋の宇治川までの約10キロを結んでいた.幅5.5mの運河には高瀬舟が往来し,大阪と京都を繋ぐ物流の大動脈であった.鴨川の分流であるみそそぎ川である.みそそぎがわ川は,鴨川と並走して流れており,鴨川納涼床で有名である.開削を担ったのは角倉了以(すみのくらりょうい)で,朱印船貿易で財を成した海外貿易家である.角倉了以は国内での土木事業も積極的に行い,高瀬川の他にも富士川や天竜川などを開削し,大堰川を浚渫した.これらの水運をもとに,材木を中心とする物資の輸送業を行い,こちらでも大きな利益を上げた.
【上下する】
川上と川下を行き来すしたり,あるいは往復する.
【徳川時代】
江戸時代.初代家康が征夷大将軍に任じられ幕府を開府した1603年(慶長8)から15代慶喜が大政奉還を行なった1867年(慶應3)までの265年間.
【遠島】
島流し.流罪.特に「遠島」と呼ばれる場合,江戸時代に一部の藩で行なわれた刑罰を意味する.ばくちを打った者,誤って人を殺した者,女と関係を持った寺持ちの僧などに行なわれた.
追放より重く,死罪より軽い.
田畑や家屋敷などの財産を没収し,期間を定めず島に送った.関東の囚人は伊豆七島(伊豆大島・利島・新島・神津島・三宅島・御蔵島・八丈島)に送られ,関西の囚人は五島列島,隠岐諸島(島根県)や壱岐島(長崎県),天草郡である.
【暇乞】
(1)別れること.別れの挨拶をすること.
(2)休暇を願い出ること.
【京都町奉行】
江戸幕府が京都においた役職で遠国奉行の一つ.京都市中の行政,司法,寺社の管理を担当した.定員は2名で,旗本から選ばれた.奉行は東町奉行と西町奉行に別れ,隔月の当番制で執務を行なった.東西それぞれに与力20騎と同心50人が付いていた.
【同心】
同心は同じ考えを持つことを意味し,中世後期には主君に従う団結した下級武士のことを呼ぶようになった.特に,江戸幕府成立時に徳川家に仕えてきた足軽身分の同心は特に譜代の御家人となった.時代劇に出てくる十手を持った町方同心のように,江戸幕府は,諸奉行所司代,城代,大番頭,書院番頭,火付盗賊改方などの配下に属し,与力の下にあって庶務や見回などの警備に就いた下級役人を同心と名付けた.
【默許/黙許】
黙認.おめこぼし.知らないふりをすること.みのがすこと.
【科】
あやまち.罪
【心得違い】
(1)思い誤り.考え違い.(2)道理に外れた考えや行為.
【當時/当時】
(1)過去のその時.(2)現在.ただいま.
【相對死/相対死】
心中(江戸幕府は「心中」という呼び方を禁じた).情死.
【情死】
相愛の男女が共に自殺すること.
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