夏目漱石 『坊っちゃん』 03-03
夏目漱石 『坊っちゃん』 三
Soseki Natsume Botchan
それからうちへ帰ってくると、宿の亭主がお茶を入れましょうと云ってやって来る。
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それからうちへ帰ってくると、宿の亭主がお茶を入れましょうと云ってやって来る。お茶を入れると云うからご馳走をするのかと思うと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飲むのだ。この様子では留守中も勝手にお茶を入れましょうを一人で履行しているかも知れない。亭主が云うには手前は書画骨董がすきで、とうとうこんな商買を内々で始めるようになりました。あなたもお見受け申すところ大分ご風流でいらっしゃるらしい。ちと道楽にお始めなすってはいかがですと、飛んでもない勧誘をやる。二年前ある人の使に帝国ホテルへ行った時は錠前直しと間違えられた事がある。ケットを被って、鎌倉の大仏を見物した時は車屋から親方と云われた。その外今日まで見損われた事は随分あるが、まだおれをつらまえて大分ご風流でいらっしゃると云ったものはない。大抵はなりや様子でも分る。風流人なんていうものは、画を見ても、頭巾を被るか短冊を持ってるものだ。このおれを風流人だなどと真面目に云うのはただの曲者じゃない。おれはそんな呑気な隠居のやるような事は嫌いだと云ったら、亭主はへへへへと笑いながら、いえ始めから好きなものは、どなたもございませんが、いったんこの道にはいるとなかなか出られませんと一人で茶を注いで妙な手付をして飲んでいる。実はゆうべ茶を買ってくれと頼んでおいたのだが、こんな苦い濃い茶はいやだ。一杯飲むと胃に答えるような気がする。今度からもっと苦くないのを買ってくれと云ったら、かしこまりましたとまた一杯しぼって飲んだ。人の茶だと思って無暗に飲む奴だ。主人が引き下がってから、明日の下読をしてすぐ寝てしまった。
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