2015年9月5日土曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 05-05

夏目漱石 『坊っちゃん』 五
Soseki Natsume Botchan

 すると二人は小声で何か話し始めた。おれにはよくきこえない、また聞きたくもない。おれは空を見ながらきよの事を考えている。


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 すると二人は小声で何か話し始めた。おれにはよくきこえない、また聞きたくもない。おれは空を見ながらきよの事を考えている。金があって、清をつれて、こんな奇麗きれいな所へ遊びに来たらさぞ愉快だろう。いくら景色がよくっても野だなどといっしょじゃつまらない。清は皺苦茶しわくちゃだらけの婆さんだが、どんな所へ連れて出たってずかしい心持ちはしない。野だのようなのは、馬車に乗ろうが、船に乗ろうが、凌雲閣りょううんかくへのろうが、到底寄り付けたものじゃない。おれが教頭で、赤シャツがおれだったら、やっぱりおれにへけつけお世辞を使って赤シャツをひやかすに違いない。江戸っ子は軽薄けいはくだと云うがなるほどこんなものが田舎巡いなかまわりをして、わたしは江戸っ子でげすと繰り返していたら、軽薄は江戸っ子で、江戸っ子は軽薄の事だと田舎者が思うに極まってる。こんな事を考えていると、何だか二人がくすくす笑い出した。笑い声の間に何か云うが途切とぎれ途切れでとんと要領を得ない。
「え? どうだか……」「……全くです……知らないんですから……罪ですね」「まさか……」「バッタを……本当ですよ」
 おれは外の言葉には耳をかたむけなかったが、バッタと云う野だのことばいた時は、思わずきっとなった。野だは何のためかバッタと云う言葉だけことさら力を入れて、明瞭めいりょうにおれの耳にはいるようにして、そのあとをわざとぼかしてしまった。おれは動かないでやはり聞いていた。
「また例の堀田ほったが……」「そうかも知れない……」「天麩羅てんぷら……ハハハハハ」「……煽動せんどうして……」「団子だんごも?」
 言葉はかように途切れ途切れであるけれども、バッタだの天麩羅だの、団子だのというところをもって推し測ってみると、何でもおれのことについて内所話ないしょばなしをしているに相違ない。話すならもっと大きな声で話すがいい、また内所話をするくらいなら、おれなんか誘わなければいい。いけ好かない連中だ。バッタだろうが雪踏せっただろうが、非はおれにある事じゃない。校長がひとまずあずけろと云ったから、たぬきの顔にめんじてただ今のところはひかえているんだ。野だの癖に入らぬ批評をしやがる。毛筆けふででもしゃぶって引っ込んでるがいい。おれの事は、おそかれ早かれ、おれ一人で片付けてみせるから、差支さしつかえはないが、また例の堀田がとか煽動してとか云う文句が気にかかる。堀田がおれを煽動して騒動そうどうを大きくしたと云う意味なのか、あるいは堀田が生徒を煽動しておれをいじめたと云うのか方角がわからない。青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しはひやりとする風が吹き出した。線香せんこうけむりのような雲が、とおる底の上を静かにして行ったと思ったら、いつしか底のおくに流れ込んで、うすくもやをけたようになった。
 もう帰ろうかと赤シャツが思い出したように云うと、ええちょうど時分ですね。今夜はマドンナの君においですかと野だが云う。赤シャツは馬鹿ばかあ云っちゃいけない、間違いになると、船縁に身をたしたやつを、少し起き直る。エヘヘヘヘ大丈夫ですよ。聞いたって……と野だが振り返った時、おれはさらのようなを野だの頭の上へまともに浴びせ掛けてやった。野だはまぼしそうに引っ繰り返って、や、こいつは降参だと首を縮めて、頭をいた。何という猪口才ちょこざいだろう。


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