2015年9月5日土曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 06-04

夏目漱石 『坊っちゃん』 六
Soseki Natsume Botchan

 おれは教頭にむかって、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云ったら、赤シャツは大いに狼狽ろうばいして、君そんな無法な事をしちゃ困る。


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 おれは教頭にむかって、まだ誰にも話さないが、これから山嵐と談判するつもりだと云ったら、赤シャツは大いに狼狽ろうばいして、君そんな無法な事をしちゃ困る。ぼく堀田ほった君の事について、別段君に何も明言した覚えはないんだから――君がもしここで乱暴を働いてくれると、僕は非常に迷惑する。君は学校に騒動そうどうを起すつもりで来たんじゃなかろうとみょうに常識をはずれた質問をするから、あたまえです、月給をもらったり、騒動を起したりしちゃ、学校の方でも困るでしょうと云った。すると赤シャツはそれじゃ昨日の事は君の参考だけにとめて、口外してくれるなと汗をかいて依頼いらいおよぶから、よろしい、僕も困るんだが、そんなにあなたが迷惑ならよしましょうと受け合った。君大丈夫だいじょうぶかいと赤シャツは念をした。どこまで女らしいんだか奥行おくゆきがわからない。文学士なんて、みんなあんな連中ならつまらんものだ。辻褄つじつまの合わない、論理に欠けた注文をして恬然てんぜんとしている。しかもこのおれを疑ぐってる。はばかりながら男だ。受け合った事を裏へ廻って反古ほごにするようなさもしい了見りょうけんはもってるもんか。
 ところへ両隣りょうどなりの机の所有主も出校したんで、赤シャツは早々自分の席へ帰って行った。赤シャツはるき方から気取ってる。部屋の中を往来するのでも、音を立てないようにくつの底をそっとおとす。音を立てないであるくのが自慢じまんになるもんだとは、この時から始めて知った。泥棒どろぼう稽古けいこじゃあるまいし、当り前にするがいい。やがて始業の喇叭らっぱがなった。山嵐はとうとう出て来ない。仕方がないから、一銭五厘を机の上へ置いて教場へ出掛でかけた。


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