2015年9月5日土曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 05-03

夏目漱石 『坊っちゃん』 五
Soseki Natsume Botchan

 ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、いかりを卸した。幾尋いくひろあるかねと赤シャツが聞くと、六尋むひろぐらいだと云う。六尋ぐらいじゃたいはむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。
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 ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、いかりを卸した。幾尋いくひろあるかねと赤シャツが聞くと、六尋むひろぐらいだと云う。六尋ぐらいじゃたいはむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。大将鯛を釣る気と見える、豪胆ごうたんなものだ。野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸をり出して投げ入れる。何だか先におもりのようななまりがぶら下がってるだけだ。うきがない。浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。おれには到底とうてい出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますかと聞く。糸はあまるほどあるが、浮がありませんと云ったら、浮がなくっちゃ釣が出来ないのは素人しろうとですよ。こうしてね、糸が水底みずそこへついた時分に、船縁ふなべりの所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食うとすぐ手に答える。――そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何にもかからない、がなくなってたばかりだ。いい気味きびだ。教頭、残念な事をしましたね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえげられちゃ、今日は油断ができませんよ。しかし逃げられても何ですね。浮とにらめくらをしている連中よりはましですね。ちょうど歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だはみような事ばかり喋舌しゃべる。よっぽどなぐりつけてやろうかと思った。おれだって人間だ、教頭ひとりで借り切った海じゃあるまいし。広い所だ。かつおの一匹ぐらい義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸をほうり込んでいい加減に指の先であやつっていた。
 しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。おれは考えた。こいつは魚に相違ない。生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。しめた、釣れたとぐいぐい手繰たぐり寄せた。おや釣れましたかね、後世おそるべしだと野だがひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水にいておらん。船縁からのぞいてみたら、金魚のようなしまのある魚が糸にくっついて、右左へただよいながら、手に応じて浮き上がってくる。面白い。水際から上げるとき、ぽちゃりとねたから、おれの顔は潮水だらけになった。ようやくつらまえて、針をとろうとするがなかなか取れない。つらまえた手はぬるぬるする。大いに気味がわるい。面倒だから糸をってどうたたきつけたら、すぐ死んでしまった。赤シャツと野だは驚ろいて見ている。おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。まだ腥臭なまぐさい。もうりだ。何が釣れたって魚はにぎりたくない。魚も握られたくなかろう。そうそう糸を捲いてしまった。


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