夏目漱石 『坊っちゃん』 05-03
夏目漱石 『坊っちゃん』 五
Soseki Natsume Botchan
ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、錨を卸した。幾尋あるかねと赤シャツが聞くと、六尋ぐらいだと云う。六尋ぐらいじゃ鯛はむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。
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ここいらがいいだろうと船頭は船をとめて、錨を卸した。幾尋あるかねと赤シャツが聞くと、六尋ぐらいだと云う。六尋ぐらいじゃ鯛はむずかしいなと、赤シャツは糸を海へなげ込んだ。大将鯛を釣る気と見える、豪胆なものだ。野だは、なに教頭のお手際じゃかかりますよ。それになぎですからとお世辞を云いながら、これも糸を繰り出して投げ入れる。何だか先に錘のような鉛がぶら下がってるだけだ。浮がない。浮がなくって釣をするのは寒暖計なしで熱度をはかるようなものだ。おれには到底出来ないと見ていると、さあ君もやりたまえ糸はありますかと聞く。糸はあまるほどあるが、浮がありませんと云ったら、浮がなくっちゃ釣が出来ないのは素人ですよ。こうしてね、糸が水底へついた時分に、船縁の所で人指しゆびで呼吸をはかるんです、食うとすぐ手に答える。――そらきた、と先生急に糸をたぐり始めるから、何かかかったと思ったら何にもかからない、餌がなくなってたばかりだ。いい気味だ。教頭、残念な事をしましたね、今のはたしかに大ものに違いなかったんですが、どうも教頭のお手際でさえ逃げられちゃ、今日は油断ができませんよ。しかし逃げられても何ですね。浮と睨めくらをしている連中よりはましですね。ちょうど歯どめがなくっちゃ自転車へ乗れないのと同程度ですからねと野だは妙な事ばかり喋舌る。よっぽど撲りつけてやろうかと思った。おれだって人間だ、教頭ひとりで借り切った海じゃあるまいし。広い所だ。鰹の一匹ぐらい義理にだって、かかってくれるだろうと、どぼんと錘と糸を抛り込んでいい加減に指の先であやつっていた。
しばらくすると、何だかぴくぴくと糸にあたるものがある。おれは考えた。こいつは魚に相違ない。生きてるものでなくっちゃ、こうぴくつく訳がない。しめた、釣れたとぐいぐい手繰り寄せた。おや釣れましたかね、後世恐るべしだと野だがひやかすうち、糸はもう大概手繰り込んでただ五尺ばかりほどしか、水に浸いておらん。船縁から覗いてみたら、金魚のような縞のある魚が糸にくっついて、右左へ漾いながら、手に応じて浮き上がってくる。面白い。水際から上げるとき、ぽちゃりと跳ねたから、おれの顔は潮水だらけになった。ようやくつらまえて、針をとろうとするがなかなか取れない。捕まえた手はぬるぬるする。大いに気味がわるい。面倒だから糸を振って胴の間へ擲きつけたら、すぐ死んでしまった。赤シャツと野だは驚ろいて見ている。おれは海の中で手をざぶざぶと洗って、鼻の先へあてがってみた。まだ腥臭い。もう懲り懲りだ。何が釣れたって魚は握りたくない。魚も握られたくなかろう。そうそう糸を捲いてしまった。
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