夏目漱石 『坊っちゃん』 05-02
夏目漱石 『坊っちゃん』 五
Soseki Natsume Botchan
船頭はゆっくりゆっくり漕いでいるが熟練は恐しいもので、見返えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。
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船頭はゆっくりゆっくり漕いでいるが熟練は恐しいもので、見返えると、浜が小さく見えるくらいもう出ている。高柏寺の五重の塔が森の上へ抜け出して針のように尖がってる。向側を見ると青嶋が浮いている。これは人の住まない島だそうだ。よく見ると石と松ばかりだ。なるほど石と松ばかりじゃ住めっこない。赤シャツは、しきりに眺望していい景色だと云ってる。野だは絶景でげすと云ってる。絶景だか何だか知らないが、いい心持ちには相違ない。ひろびろとした海の上で、潮風に吹かれるのは薬だと思った。いやに腹が減る。「あの松を見たまえ、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野だに云うと、野だは「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。舟は島を右に見てぐるりと廻った。波は全くない。これで海だとは受け取りにくいほど平だ。赤シャツのお陰ではなはだ愉快だ。出来る事なら、あの島の上へ上がってみたいと思ったから、あの岩のある所へは舟はつけられないんですかと聞いてみた。つけられん事もないですが、釣をするには、あまり岸じゃいけないですと赤シャツが異議を申し立てた。おれは黙ってた。すると野だがどうです教頭、これからあの島をターナー島と名づけようじゃありませんかと余計な発議をした。赤シャツはそいつは面白い、吾々はこれからそう云おうと賛成した。この吾々のうちにおれもはいってるなら迷惑だ。おれには青嶋でたくさんだ。あの岩の上に、どうです、ラフハエルのマドンナを置いちゃ。いい画が出来ますぜと野だが云うと、マドンナの話はよそうじゃないかホホホホと赤シャツが気味の悪るい笑い方をした。なに誰も居ないから大丈夫ですと、ちょっとおれの方を見たが、わざと顔をそむけてにやにやと笑った。おれは何だかやな心持ちがした。マドンナだろうが、小旦那だろうが、おれの関係した事でないから、勝手に立たせるがよかろうが、人に分らない事を言って分らないから聞いたって構やしませんてえような風をする。下品な仕草だ。これで当人は私も江戸っ子でげすなどと云ってる。マドンナと云うのは何でも赤シャツの馴染の芸者の渾名か何かに違いないと思った。なじみの芸者を無人島の松の木の下に立たして眺めていれば世話はない。それを野だが油絵にでもかいて展覧会へ出したらよかろう。
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