夏目漱石 『坊っちゃん』 06-11
夏目漱石 『坊っちゃん』 六
Soseki Natsume Botchan
それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと云った。
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それから校長は、もう大抵ご意見もないようでありますから、よく考えた上で処分しましょうと云った。ついでだからその結果を云うと、寄宿生は一週間の禁足になった上に、おれの前へ出て謝罪をした。謝罪をしなければその時辞職して帰るところだったがなまじい、おれのいう通りになったのでとうとう大変な事になってしまった。それはあとから話すが、校長はこの時会議の引き続きだと号してこんな事を云った。生徒の風儀は、教師の感化で正していかなくてはならん、その一着手として、教師はなるべく飲食店などに出入しない事にしたい。もっとも送別会などの節は特別であるが、単独にあまり上等でない場所へ行くのはよしたい――たとえば蕎麦屋だの、団子屋だの――と云いかけたらまた一同が笑った。野だが山嵐を見て天麩羅と云って目くばせをしたが山嵐は取り合わなかった。いい気味だ。
おれは脳がわるいから、狸の云うことなんか、よく分らないが、蕎麦屋や団子屋へ行って、中学の教師が勤まらなくっちゃ、おれみたような食い心棒にゃ到底出来っ子ないと思った。それなら、それでいいから、初手から蕎麦と団子の嫌いなものと注文して雇うがいい。だんまりで辞令を下げておいて、蕎麦を食うな、団子を食うなと罪なお布令を出すのは、おれのような外に道楽のないものにとっては大変な打撃だ。すると赤シャツがまた口を出した。「元来中学の教師なぞは社会の上流にくらいするものだからして、単に物質的の快楽ばかり求めるべきものでない。その方に耽るとつい品性にわるい影響を及ぼすようになる。しかし人間だから、何か娯楽がないと、田舎へ来て狭い土地では到底暮せるものではない。それで釣に行くとか、文学書を読むとか、または新体詩や俳句を作るとか、何でも高尚な精神的娯楽を求めなくってはいけない……」
だまって聞いてると勝手な熱を吹く。沖へ行って肥料を釣ったり、ゴルキが露西亜の文学者だったり、馴染の芸者が松の木の下に立ったり、古池へ蛙が飛び込んだりするのが精神的娯楽なら、天麩羅を食って団子を呑み込むのも精神的娯楽だ。そんな下さらない娯楽を授けるより赤シャツの洗濯でもするがいい。あんまり腹が立ったから「マドンナに逢うのも精神的娯楽ですか」と聞いてやった。すると今度は誰も笑わない。妙な顔をして互に眼と眼を見合せている。赤シャツ自身は苦しそうに下を向いた。それ見ろ。利いたろう。ただ気の毒だったのはうらなり君で、おれが、こう云ったら蒼い顔をますます蒼くした。
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