2015年9月6日日曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 07-01

夏目漱石 『坊っちゃん』 七
Soseki Natsume Botchan

 おれは即夜そくや下宿を引きはらった。



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 おれは即夜そくや下宿を引きはらった。宿へ帰って荷物をまとめていると、女房にょうぼうが何か不都合ふつごうでもございましたか、お腹の立つ事があるなら、っておくれたら改めますと云う。どうもおどろく。世の中にはどうして、こんな要領を得ない者ばかりそろってるんだろう。出てもらいたいんだか、居てもらいたいんだかわかりゃしない。まるで気狂きちがいだ。こんな者を相手に喧嘩けんかをしたって江戸えどっ子の名折れだから、車屋をつれて来てさっさと出てきた。
 出た事は出たが、どこへ行くというあてもない。車屋が、どちらへ参りますと云うから、だまっていて来い、今にわかる、と云って、すたすたやって来た。面倒めんどうだから山城屋へ行こうかとも考えたが、また出なければならないから、つまり手数だ。こうして歩いてるうちには下宿とか、何とか看板のあるうちを目付け出すだろう。そうしたら、そこが天意にかなったわが宿と云う事にしよう。とぐるぐる、閑静かんせいで住みよさそうな所をあるいているうち、とうとう鍛冶屋町かじやちょうへ出てしまった。ここは士族屋敷やしきで下宿屋などのある町ではないから、もっとにぎやかな方へ引き返そうかとも思ったが、ふといい事を考え付いた。おれが敬愛するうらなり君はこの町内に住んでいる。うらなり君は土地の人で先祖代々の屋敷をひかえているくらいだから、この辺の事情には通じているに相違そういない。あの人をたずねて聞いたら、よさそうな下宿を教えてくれるかも知れない。さいわい一度挨拶あいさつに来て勝手は知ってるから、がしてあるく面倒はない。ここだろうと、いい加減に見当をつけて、ごめんご免と二返ばかり云うと、おくから五十ぐらいな年寄としよりが古風な紙燭しそくをつけて、出て来た。おれは若い女もきらいではないが、年寄を見ると何だかなつかしい心持ちがする。大方きよがすきだから、そのたましいが方々のおばあさんに乗り移るんだろう。これは大方うらなり君のおっさんだろう。切り下げの品格のある婦人だが、よくうらなり君に似ている。まあお上がりと云うところを、ちょっとお目にかかりたいからと、主人を玄関げんかんまで呼び出して実はこれこれだが君どこか心当りはありませんかと尋ねてみた。うらなり先生それはさぞお困りでございましょう、としばらく考えていたが、この裏町に萩野はぎのと云って老人夫婦ぎりでらしているものがある、いつぞや座敷ざしきを明けておいても無駄むだだから、たしかな人があるなら貸してもいいから周旋しゅうせんしてくれとたのんだ事がある。今でも貸すかどうか分らんが、まあいっしょに行って聞いてみましょうと、親切に連れて行ってくれた。


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