2015年9月6日日曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 07-02

夏目漱石 『坊っちゃん』 七
Soseki Natsume Botchan

 その夜から萩野の家の下宿人となった。



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 その夜から萩野の家の下宿人となった。おどろいたのは、おれがいか銀の座敷を引き払うと、翌日あくるひから入れちがいに野だが平気な顔をして、おれの居た部屋を占領せんりょうした事だ。さすがのおれもこれにはあきれた。世の中はいかさま師ばかりで、おたがいに乗せっこをしているのかも知れない。いやになった。
 世間がこんなものなら、おれも負けない気で、世間並せけんなみにしなくちゃ、りきれない訳になる。巾着切きんちゃくきりの上前をはねなければ三度のごぜんいただけないと、事がまればこうして、生きてるのも考え物だ。と云ってぴんぴんした達者なからだで、首をくくっちゃ先祖へ済まない上に、外聞が悪い。考えると物理学校などへはいって、数学なんて役にも立たない芸を覚えるよりも、六百円を資本もとでにして牛乳屋でも始めればよかった。そうすれば清もおれのそばはなれずに済むし、おれも遠くから婆さんの事を心配しずにくらされる。いっしょに居るうちは、そうでもなかったが、こうして田舎いなかへ来てみると清はやっぱり善人だ。あんな気立きだてのいい女は日本中さがして歩いたってめったにはない。婆さん、おれの立つときに、少々風邪かぜを引いていたが今頃いまごろはどうしてるか知らん。先だっての手紙を見たらさぞ喜んだろう。それにしても、もう返事がきそうなものだが――おれはこんな事ばかり考えて二三日暮していた。
 気になるから、宿のお婆さんに、東京から手紙は来ませんかと時々たずねてみるが、聞くたんびに何にも参りませんと気の毒そうな顔をする。ここの夫婦はいか銀とは違って、もとが士族だけに双方そうほう共上品だ。じいさんがるになると、変な声を出してうたいをうたうには閉口するが、いか銀のようにお茶を入れましょうと無暗むやみに出て来ないから大きに楽だ。お婆さんは時々部屋へ来ていろいろな話をする。どうして奥さんをお連れなさって、いっしょにおでなんだのぞなもしなどと質問をする。奥さんがあるように見えますかね。可哀想かわいそうにこれでもまだ二十四ですぜと云ったらそれでも、あなた二十四で奥さんがおありなさるのは当り前ぞなもしと冒頭ぼうとうを置いて、どこのだれさんは二十でおよめをおもらいたの、どこの何とかさんは二十二で子供を二人ふたりお持ちたのと、何でも例を半ダースばかり挙げて反駁はんばくを試みたにはおそれ入った。それじゃぼくも二十四でお嫁をお貰いるけれ、世話をしておくれんかなと田舎言葉を真似まねて頼んでみたら、お婆さん正直に本当かなもしと聞いた。


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