2015年9月6日日曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 07-05

夏目漱石 『坊っちゃん』 七
Soseki Natsume Botchan

 これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。



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 これじゃ聞いたって仕方がないから、やめにした。それから二三日して学校から帰るとお婆さんがにこにこして、へえお待遠さま。やっと参りました。と一本の手紙を持って来てゆっくりご覧と云って出て行った。取り上げてみると清からの便りだ。符箋ふせんが二三まいついてるから、よく調べると、山城屋から、いか銀の方へまわして、いか銀から、萩野はぎのへ廻って来たのである。その上山城屋では一週間ばかり逗留とうりゅうしている。宿屋だけに手紙までとめるつもりなんだろう。開いてみると、非常に長いもんだ。っちゃんの手紙を頂いてから、すぐ返事をかこうと思ったが、あいにく風邪を引いて一週間ばかりていたものだから、ついおそくなって済まない。その上今時のお嬢さんのように読み書きが達者でないものだから、こんなまずい字でも、かくのによっぽど骨が折れる。おいに代筆を頼もうと思ったが、せっかくあげるのに自分でかかなくっちゃ、坊っちゃんに済まないと思って、わざわざたがきを一返して、それから清書をした。清書をするには二日で済んだが、下た書きをするには四日かかった。読みにくいかも知れないが、これでも一生懸命いっしょうけんめいにかいたのだから、どうぞしまいまで読んでくれ。という冒頭ぼうとうで四尺ばかり何やらかやらしたためてある。なるほど読みにくい。字がまずいばかりではない、大抵たいてい平仮名だから、どこで切れて、どこで始まるのだか句読くとうをつけるのによっぽど骨が折れる。おれはちな性分だから、こんな長くて、分りにくい手紙は、五円やるから読んでくれと頼まれても断わるのだが、この時ばかりは真面目まじめになって、はじめからしまいまで読み通した。読み通した事は事実だが、読む方に骨が折れて、意味がつながらないから、また頭から読み直してみた。部屋のなかは少し暗くなって、前の時より見にくく、なったから、とうとう椽鼻えんばなへ出てこしをかけながら鄭寧ていねいに拝見した。すると初秋はつあきの風が芭蕉ばしょうの葉を動かして、素肌すはだきつけた帰りに、読みかけた手紙を庭の方へなびかしたから、しまいぎわには四尺あまりの半切れがさらりさらりと鳴って、手を放すと、むこうの生垣まで飛んで行きそうだ。おれはそんな事には構っていられない。坊っちゃんは竹を割ったような気性だが、ただ肝癪かんしゃくが強過ぎてそれが心配になる。――ほかの人に無暗むやみ渾名あだななんか、つけるのは人にうらまれるもとになるから、やたらに使っちゃいけない、もしつけたら、清だけに手紙で知らせろ。――田舎者は人がわるいそうだから、気をつけてひどい目にわないようにしろ。――気候だって東京より不順に極ってるから、寝冷ねびえをして風邪を引いてはいけない。坊っちゃんの手紙はあまり短過ぎて、容子がよくわからないから、この次にはせめてこの手紙の半分ぐらいの長さのを書いてくれ。――宿屋へ茶代を五円やるのはいいが、あとで困りゃしないか、田舎へ行ってたよりになるはお金ばかりだから、なるべく倹約けんやくして、万一の時に差支さしつかえないようにしなくっちゃいけない。――お小遣こづかいがなくて困るかも知れないから、為替かわせで十円あげる。――せんだって坊っちゃんからもらった五十円を、坊っちゃんが、東京へ帰って、うちを持つ時の足しにと思って、郵便局へ預けておいたが、この十円を引いてもまだ四十円あるから大丈夫だ。――なるほど女と云うものは細かいものだ。

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