夏目漱石 『坊っちゃん』 04-07
夏目漱石 『坊っちゃん』 四
Soseki Natsume Botchan
清の事を考えながら、のつそつしていると、突然おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子を取って床板を踏みならす音がした。
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清の事を考えながら、のつそつしていると、突然おれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子を取って床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きな鬨の声が起った。おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる途端に、ははあさっきの意趣返しに生徒があばれるのだなと気がついた。手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達に覚があるだろう。本来なら寝てから後悔してあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。たとい、あやまらないまでも恐れ入って、静粛に寝ているべきだ。それを何だこの騒ぎは。寄宿舎を建てて豚でも飼っておきあしまいし。気狂いじみた真似も大抵にするがいい。どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、楷子段を三股半に二階まで躍り上がった。すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。これは妙だ。ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然と分らないが、人気のあるとないとは様子でも知れる。長く東から西へ貫いた廊下には鼠一匹も隠れていない。廊下のはずれから月がさして、遥か向うが際どく明るい。どうも変だ、おれは小供の時から、よく夢を見る癖があって、夢中に跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常な勢で尋ねたくらいだ。その時は三日ばかりうち中の笑い草になって大いに弱った。ことによると今のも夢かも知れない。しかしたしかにあばれたに違いないがと、廊下の真中で考え込んでいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまって響いたかと思う間もなく、前のように拍子を取って、一同が床板を踏み鳴らした。それ見ろ夢じゃないやっぱり事実だ。静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへ馳けだした。おれの通る路は暗い、ただはずれに見える月あかりが目標だ。おれが馳け出して二間も来たかと思うと、廊下の真中で、堅い大きなものに向脛をぶつけて、あ痛いが頭へひびく間に、身体はすとんと前へ抛り出された。こん畜生と起き上がってみたが、馳けられない。気はせくが、足だけは云う事を利かない。じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、森としている。いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。まるで豚だ。こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心を極めて寝室の一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。錠をかけてあるのか、机か何か積んで立て懸けてあるのか、押しても、押しても決して開かない。今度は向う合せの北側の室を試みた。開かない事はやっぱり同然である。おれが戸を開けて中に居る奴を引っ捕らまえてやろうと、焦慮てると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。この野郎申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧が足りない。こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。わからないけれども、決して負けるつもりはない。このままに済ましてはおれの顔にかかわる。江戸っ子は意気地がないと云われるのは残念だ。宿直をして鼻垂れ小僧にからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本だ。旗本の元は清和源氏で、多田の満仲の後裔だ。こんな土百姓とは生まれからして違うんだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかった。さっき、ぶつけた向脛を撫でてみると、何だかぬらぬらする。血が出るんだろう。血なんか出たければ勝手に出るがいい。そのうち最前からの疲れが出て、ついうとうと寝てしまった。何だか騒がしいので、眼が覚めた時はえっ糞しまったと飛び上がった。おれの坐ってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、おれの前に立っている。おれは正気に返って、はっと思う途端に、おれの鼻の先にある生徒の足を引っ攫んで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと仰向に倒れた。ざまを見ろ。残る一人がちょっと狼狽したところを、飛びかかって、肩を抑えて二三度こづき廻したら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。さあおれの部屋まで来いと引っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなく尾いて来た。夜はとうにあけている。
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