2015年9月5日土曜日

夏目漱石 『坊っちゃん』 04-07

夏目漱石 『坊っちゃん』 四
Soseki Natsume Botchan

 清の事を考えながら、のつそつしていると、突然とつぜんおれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子ひょうしを取って床板を踏みならす音がした。


前へ

 清の事を考えながら、のつそつしていると、突然とつぜんおれの頭の上で、数で云ったら三四十人もあろうか、二階が落っこちるほどどん、どん、どんと拍子ひょうしを取って床板を踏みならす音がした。すると足音に比例した大きなときの声がおこった。おれは何事が持ち上がったのかと驚ろいて飛び起きた。飛び起きる途端とたんに、ははあさっきの意趣返いしゅがえしに生徒があばれるのだなと気がついた。手前のわるい事は悪るかったと言ってしまわないうちは罪は消えないもんだ。わるい事は、手前達におぼえがあるだろう。本来なら寝てから後悔こうかいしてあしたの朝でもあやまりに来るのが本筋だ。たとい、あやまらないまでも恐れ入って、静粛せいしゅくに寝ているべきだ。それを何だこのさわぎは。寄宿舎を建ててぶたでも飼っておきあしまいし。気狂きちがいじみた真似まね大抵たいていにするがいい。どうするか見ろと、寝巻のまま宿直部屋を飛び出して、楷子段はしごだん三股半みまたはんに二階までおどり上がった。すると不思議な事に、今まで頭の上で、たしかにどたばた暴れていたのが、急に静まり返って、人声どころか足音もしなくなった。これは妙だ。ランプはすでに消してあるから、暗くてどこに何が居るか判然とわからないが、人気ひとけのあるとないとは様子でも知れる。長く東から西へつらぬいた廊下ろうかにはねずみぴきかくれていない。廊下のはずれから月がさして、遥か向うが際どく明るい。どうも変だ、おれは小供の時から、よくゆめを見る癖があって、夢中むちゅうに跳ね起きて、わからぬ寝言を云って、人に笑われた事がよくある。十六七の時ダイヤモンドを拾った夢を見た晩なぞは、むくりと立ち上がって、そばに居た兄に、今のダイヤモンドはどうしたと、非常ないきおいたずねたくらいだ。その時は三日ばかりうちじゅうの笑い草になって大いに弱った。ことによると今のも夢かも知れない。しかしたしかにあばれたに違いないがと、廊下の真中まんなかで考え込んでいると、月のさしている向うのはずれで、一二三わあと、三四十人の声がかたまってひびいたかと思う間もなく、前のように拍子を取って、一同が床板ゆかいたを踏み鳴らした。それ見ろ夢じゃないやっぱり事実だ。静かにしろ、夜なかだぞ、とこっちも負けんくらいな声を出して、廊下を向うへけだした。おれの通るみちは暗い、ただはずれに見える月あかりが目標めじるしだ。おれが馳け出して二間も来たかと思うと、廊下の真中で、かたい大きなものに向脛むこうずねをぶつけて、あ痛いが頭へひびく間に、身体はすとんと前へほうり出された。こん畜生ちきしょうと起き上がってみたが、馳けられない。気はせくが、足だけは云う事を利かない。じれったいから、一本足で飛んで来たら、もう足音も人声も静まり返って、しんとしている。いくら人間が卑怯だって、こんなに卑怯に出来るものじゃない。まるで豚だ。こうなれば隠れている奴を引きずり出して、あやまらせてやるまではひかないぞと、心をめて寝室しんしつの一つを開けて中を検査しようと思ったが開かない。じょうをかけてあるのか、机か何か積んで立てけてあるのか、しても、押しても決して開かない。今度は向う合せの北側のへやを試みた。開かない事はやっぱり同然である。おれが戸を開けて中に居る奴を引っらまえてやろうと、焦慮いらってると、また東のはずれで鬨の声と足拍子が始まった。この野郎やろう申し合せて、東西相応じておれを馬鹿にする気だな、とは思ったがさてどうしていいか分らない。正直に白状してしまうが、おれは勇気のある割合に智慧ちえが足りない。こんな時にはどうしていいかさっぱりわからない。わからないけれども、決して負けるつもりはない。このままに済ましてはおれの顔にかかわる。江戸えどっ子は意気地いくじがないと云われるのは残念だ。宿直をして鼻垂はなった小僧こぞうにからかわれて、手のつけようがなくって、仕方がないから泣き寝入りにしたと思われちゃ一生の名折れだ。これでも元は旗本はたもとだ。旗本の元は清和源氏せいわげんじで、多田ただ満仲まんじゅう後裔こうえいだ。こんな土百姓どびゃくしょうとは生まれからして違うんだ。ただ智慧のないところが惜しいだけだ。どうしていいか分らないのが困るだけだ。困ったって負けるものか。正直だから、どうしていいか分らないんだ。世の中に正直が勝たないで、外に勝つものがあるか、考えてみろ。今夜中に勝てなければ、あした勝つ。あした勝てなければ、あさって勝つ。あさって勝てなければ、下宿から弁当を取り寄せて勝つまでここに居る。おれはこう決心をしたから、廊下の真中へあぐらをかいて夜のあけるのを待っていた。蚊がぶんぶん来たけれども何ともなかった。さっき、ぶつけた向脛をでてみると、何だかぬらぬらする。血が出るんだろう。血なんか出たければ勝手に出るがいい。そのうち最前からのつかれが出て、ついうとうと寝てしまった。何だか騒がしいので、が覚めた時はえっくそしまったと飛び上がった。おれのすわってた右側にある戸が半分あいて、生徒が二人、おれの前に立っている。おれは正気に返って、はっと思う途端に、おれの鼻の先にある生徒の足をつかんで、力任せにぐいと引いたら、そいつは、どたりと仰向あおむけに倒れた。ざまを見ろ。残る一人がちょっと狼狽ろうばいしたところを、飛びかかって、肩をおさえて二三度こづき廻したら、あっけに取られて、眼をぱちぱちさせた。さあおれの部屋まで来いと引っ立てると、弱虫だと見えて、一も二もなくいて来た。はとうにあけている。

次へ

0 件のコメント:

コメントを投稿