夏目漱石 『坊っちゃん』 04-04
夏目漱石 『坊っちゃん』 四
Soseki Natsume Botchan
それから日はすぐくれる。
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それから日はすぐくれる。くれてから二時間ばかりは小使を宿直部屋へ呼んで話をしたが、それも飽きたから、寝られないまでも床へはいろうと思って、寝巻に着換えて、蚊帳を捲くって、赤い毛布を跳ねのけて、とんと尻持を突いて、仰向けになった。おれが寝るときにとんと尻持をつくのは小供の時からの癖だ。わるい癖だと云って小川町の下宿に居た時分、二階下に居た法律学校の書生が苦情を持ち込んだ事がある。法律の書生なんてものは弱い癖に、やに口が達者なもので、愚な事を長たらしく述べ立てるから、寝る時にどんどん音がするのはおれの尻がわるいのじゃない。下宿の建築が粗末なんだ。掛ケ合うなら下宿へ掛ケ合えと凹ましてやった。この宿直部屋は二階じゃないから、いくら、どしんと倒れても構わない。なるべく勢よく倒れないと寝たような心持ちがしない。ああ愉快だと足をうんと延ばすと、何だか両足へ飛び付いた。ざらざらして蚤のようでもないからこいつあと驚ろいて、足を二三度毛布の中で振ってみた。するとざらざらと当ったものが、急に殖え出して脛が五六カ所、股が二三カ所、尻の下でぐちゃりと踏み潰したのが一つ、臍の所まで飛び上がったのが一つ――いよいよ驚ろいた。早速起き上って、毛布をぱっと後ろへ抛ると、蒲団の中から、バッタが五六十飛び出した。正体の知れない時は多少気味が悪るかったが、バッタと相場が極まってみたら急に腹が立った。バッタの癖に人を驚ろかしやがって、どうするか見ろと、いきなり括り枕を取って、二三度擲きつけたが、相手が小さ過ぎるから勢よく抛げつける割に利目がない。仕方がないから、また布団の上へ坐って、煤掃の時に蓙を丸めて畳を叩くように、そこら近辺を無暗にたたいた。バッタが驚ろいた上に、枕の勢で飛び上がるものだから、おれの肩だの、頭だの鼻の先だのへくっ付いたり、ぶつかったりする。顔へ付いた奴は枕で叩く訳に行かないから、手で攫んで、一生懸命に擲きつける。忌々しい事に、いくら力を出しても、ぶつかる先が蚊帳だから、ふわりと動くだけで少しも手答がない。バッタは擲きつけられたまま蚊帳へつらまっている。死にもどうもしない。ようやくの事に三十分ばかりでバッタは退治た。箒を持って来てバッタの死骸を掃き出した。小使が来て何ですかと云うから、何ですかもあるもんか、バッタを床の中に飼っとく奴がどこの国にある。間抜め。と叱ったら、私は存じませんと弁解をした。存じませんで済むかと箒を椽側へ抛り出したら、小使は恐る恐る箒を担いで帰って行った。
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